女性アスリートのホルモンバランスケアの重要性が少しずつ注目されるようになってきた昨今。1998年の長野オリンピックで、日本女性初のスピードスケート短距離種目でのメダリストとなった岡崎朋美さん。
「当時はスタッフ個々人のケアセンスに依存する部分が大きかった」と振り返っています。そのため「ホルモンバランスの影響を受けやすい人も受けにくい人も、一律にフォローできる体制作りが必要」と考えていたそう。岡崎さん自身は、現役時代からシニアスケーターとして活躍する今日まで、どのように体と向き合いケアをしてきたのか、そして後輩たちのために自分がしてあげられることは何と考えているのか、お話を伺いました。

岡崎朋美さん
元スピードスケート日本代表。1994年リレハンメル、98年長野(500m銅メダル/日本人女子短距離として初のメダル獲得)、2002年ソルトレイクシティ、06年トリノ、10年バンクーバー(日本選手団旗手/冬季五輪日本女子最多出場記録)の計5回オリンピック出場。20代後半にヘルニア大手術を経ての再起、結婚・出産の後も、ソチオリンピックを目指した経験など、前人未到の多くのチャレンジをし続けた姿勢や、現役当時からの朋美スマイルに表れる爽やかな性格に、ファンは多数。現在はコメンテーター、シニアスケーターとして、スピードスケート普及活動に尽力している。


私はたまたま月経が正常で月経痛も困るほどではなくて。でも、「たまたま」で済ましてはいけない


1994年のリレハンメルオリンピックから、長野、ソルトレーク、トリノ、バンクーバーと、何と5大会連続でオリンピックに出場してきたスピードスケートの岡崎朋美選手。見ているだけでこちらも気持ちが明るくなるような“朋美スマイル”を覚えている人は多いと思います。長野五輪で銅メダルを獲得された頃は、まだまだホルモンバランスと心身の関係が十分に理解されていなかったり、話題に取り上げられていなかった時代ですが、岡崎さんはどのように身体と心をケアしていたのでしょう?

「私は、比較的月経サイクルが正確で、腹痛などもとくになく、そんなに気にはなっていませんでした。ただ試合と重なると、股関節まわりがダルくなったり反射神経が鈍る、といった影響はありましたね。ピルを飲んで試合と重ならないようにする、という手があるのは知っていたんですけど、もともと規則的だったので、ピルによって逆にサイクルが崩れたら嫌だなと思い、重なったときはお腹にカイロを貼って温めるなど、自分なりの対処法で何とかしのいでいました。といってもできることはあまりなくて。だからできるだけ気にしないようにしようと、不調を忘れるぐらい練習したりして。気合いで乗り切っている部分が大きかったですね。
スピードスケート選手は体脂肪率がかなり低いので、月経が止まっている人も多かったんです。ある先輩スケーターは体脂肪率が8%で、ずっと月経が来てなかったんですけど、『ないほうがラク』なんて言っていて、『大丈夫かな?』と当時でも心配になっていました。その先輩の場合は、その後、子どもにも恵まれており、安心しましたけど。多くの選手たちの意識はそのくらいのレベルでした

ただスピードスケート界は、当時のアスリート界では珍しく、比較的オープンに月経のことなどを話せる環境だったと言います。

「たまたまチーム監督がオープンな方で。チームはわりと女性選手が多かったこともあって、皆『今、月経でちょっと体が重いんです』と言ったり、監督も練習で動きが悪い選手がいると月経周期を確認しつつ『ほどほどにな』などと体調を気遣ってくれていました。月経の影響は人によって重い軽いの違いがありますが、隠さず『今日は調子が悪い』と言える環境だったのは、多くの選手がかなり救われていたんじゃないかと思います


月経時の対処法は身体的なものはもちろん、メンタルケアも必要


とはいえそれはあくまで、“たまたま”です。監督がそういったことに気付かないタイプであったり、オープンに話せる雰囲気でなかったりすればまた環境は違っていたでしょう。当時はまだまだ、そういったスタッフ個人の性格や考え方に左右される部分が大きかった、と振り返ります。

「チームには女性ドクターもいたので、体調が悪いときは皆相談に行ける環境でしたが、対処法の指導がメインでした。当時は「選手の気持ちに共感する」、というメンタルケアまではなかったので、私がその後メンタル的なフォローをすることもありました。
選手の中には、解決法が見つからなくても寄り添ってもらえるだけでいい、という人も少なくないんです。そういった選手心理を見逃さないことも大事ですから。自分のことよりも、後輩選手のメンタルが心配になることも多かったですね」

岡崎選手がそんなふうに、身体だけでなく心のケアの大切さにも気づくようになったのは、あるターニングポイントがあったそう。