『世界の今をダイジェスト』シリーズで描かれる「政治的公平さ」の難しさ
欧米では「PC(ポリティカル・コレクトネス)」という言葉が浸透していますが、これは、社会の特定のグループやメンバーに不快感や不利益を与えない、ということを示す言葉です。まさに、多様化社会と切っても切れない言葉でしょう。しかし多様性とこの「PC」を厳密に関連づけ始めると、「これはオッケーか?アウトか?」と議論の対象になることが五万と出てくるのです。たとえばかつては、結婚している女性としていない女性を「ミス」と「ミセス」と呼び分けていましたが、やがてこれは “違い”を際立たせているもの、つまり差別として問題になり、今は「ミズ」という呼称に置き換わりました。最近ではアメリカでよく使われる「ヘイ、ガイズ!」という呼びかけも、女性も当たり前にいる多様な社会にそぐわないゆえ「良くない」と指摘されるそうで、「行き過ぎだ」と不満を漏らす人も増えています(私はこの指摘は理解できますが)。
では同様の理由から、全ての文化や歴史が「違いを受け入れていない、つまり公平でない」と指摘されるようになったらどうでしょう? これは個人的なことなのですが、私は最近、芸能人へのインタビューで「好きな男性、または女性のタイプは?」という質問をしないよう心がけています。というのもこの質問は、異性愛が普通だ、という決めつけが前提になっているから。
しかしそうなると、男女の恋愛について語ることはタブーなのか、恋愛文化そのものを否定することにつながらないか、といった葛藤も生まれてくるわけです。同様にアメリカでは今、批判を恐れて何も言えない、という萎縮する人たちが増えているそう。このように考え始めると、多様性を論じることは本当に簡単なことではない、とつくづく感じてしまいます。
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