膨らんでいく恋愛への違和感、世間とのズレを感じながら


物心ついたときから、恋愛至上主義の社会に違和感を感じてきました。

ある時、仲良くなった男性と初めてご飯に行ったとき、かなり強引にアプローチされ、とても困惑したことがありました。あとで友人に「異性がサシで会うときは、恋愛を意識するものだ」と言われ、心底驚きました。それから気軽に異性を誘えなくなりました。

また、雑誌に「男女の友情は存在するのか?」という論争が紹介されていて、男女に友情は存在しない、という意見の人たちが多いことにもとても驚きました。

ドラマなどを見ていると、主要な登場人物はお決まりのように、必ず誰かと恋愛関係になります。流行りの音楽は恋愛ソングばかりでしたが、「君しか見えない」「君がいれば何もいらない」といった歌詞がまったく理解できず、好きな人と結ばれたって、友達も大事だし仕事もお金も必要では? と真面目に突っ込んでしまったりしていました。

人によると思いますが、恋愛感情を抱かれることは、筆者の場合嬉しくないどころか、どこか恐怖すら感じてしまいます。このことを友人に話すと、「人から好かれることって嬉しいでしょ、普通。怖いって何?」と、かなり驚かれました。ドラマでハーレム状態の主人公を見て、「いいなぁ、羨ましい」と言っていた別の友人を見て、あまりの感覚の違いに、生きてる世界が違う、とさえ思いました。

 


濃淡が混じり合う、グラデーションの中の一色


よく、セクシュアリティは“グラデ―ジョン”、と言われます。アロマンティック・アセクシュアルとカテゴライズされる人たちは、まさにグラデーションです。

ドラマの中でも、アロマンティック・アセクシュアルで、パートナーは欲しい、子どもが欲しいという人が出てきます。また、アロマンティックではないけれどアセクシュアルという人も、またその逆もいます。恋愛感情と性欲が結びつかない人もいるのです。

『恋せぬふたり』が教えてくれる、性のグラデーション。“曖昧な色合い”が混じり合える社会になれたら_img0
写真:Shutterstock

しかし、世間ではなかなかこのグラデーションが理解されないように思います。恋愛至上主義者かアロマンティック・アセクシュアルの二項対立で、恋するなら性欲が伴うし、アロマンティック・アセクシュアルなら独りを好むのだろう、という風に。しかし、恋愛する人の中にも、性的なことは苦手、別に恋愛や結婚をしなくても楽しく暮らせる、という人もいます。

アロマンティック・アセクシュアルという言葉を使うと、少し特殊な人、というイメージを持たれるかもしれませんが、恋をしてもしなくても、人はそれぞれ違い、グラデーションになっていて、その色の一つなのではないか、と思っています。