言葉にできなかった違和感が、形になり始めた


最近SNSで、強引な恋愛描写が苦手、登場人物が無理矢理くっつく流れにもやもやする、といった声をよく目にするようになりました。例えば、強引にキスをしたり、了承を得ずに押し倒したり。少し前なら流されたでしょうが、違和感を抱く人の声も上がり始めたように思います。ドラマなどで見られる、もはや無理矢理にも感じるような、恋愛要素を入れ込む展開に辟易とする声も聞かれます。

そうした背景もあってか、今までの万人受けするとされてきたワンパターンの方程式に、変化の兆しが現れているような気がしています。ドラマ『恋せぬふたり』も、その兆しの一つと言えるのではないでしょうか。

『恋せぬふたり』が教えてくれる、性のグラデーション。“曖昧な色合い”が混じり合える社会になれたら_img0
写真:Shutterstock

生まれながら恋愛すること、性欲を持つことが当たり前とされる社会で育ってきた中で、その前提を疑ったことがないだけで、本当に恋が必要か、と聞かれると、実はわからない、なんて人もいるのではないかと思ったりもします。

筆者の友人は、恋人がいましたが、別に好きだから付き合ったわけではなかったといいます。「いい歳して彼氏がいないと恥ずかしい」し、性行為も「求められたから仕方なく応じた」と言います。このように、自分の意志よりも、恋はするもの、もっと言うとしないといけないもの、のように感じている人もいるのかもしれません。それくらい、恋愛して当たり前、という考えは、私たちの感覚にすり込まれているように思います。

 


「なんでそうなってしまったんだろうね」と言われて


咲子や羽が、恋愛感情や性欲がないことを周囲から理解されず苦悩するように、社会では、恋愛しない、性欲がないというと、どこか「欠けている人」というレッテルを貼られてしまう風潮があります。いい歳してパートナーもいないなんて、きっと何か問題があるんだろう、そんな風に思われてしまうのです。

筆者が友人に、自分は他人に恋愛感情を抱かないことを話すと、「なんでそうなってしまったんだろうね」と言われたことがあります。“そうなってしまった”という言葉に、どこか可哀そう、というニュアンスを感じ、複雑な気持ちになりました。きっと人は恋をして当たり前で、恋愛が幸福につながる、という前提から言っているのだと思います。しかし、筆者からすると、元々そういう性質であって、別に困ることもありません。