日本海の沖合約60kmに浮かぶ島根県・隠岐諸島。古くは後鳥羽上皇や後醍醐天皇が流された地として知られ、現在はユネスコ世界ジオパークにも認定されている隠岐は、人の住む4つの島と約180の小島からなる自然豊かな島々です。そのうちの1つ、中ノ島(海士町)では、15年以上前から大胆な施策を行い、地方創生の先駆けとして注目を集めてきました。本土からフェリーで3時間以上もかかる離島でありながら、都会から移住してくる人も多く、約2200人の住民のうち2割は島外からのIターン移住者です。

コンビニやスーパーもなく、海が荒れると船が欠航になってしまうような島ですが、小中学生とその親を対象とした「親子島留学」や全国の高校生を受け入れる隠岐島前高校の「島留学」、20〜29歳の大人向け就労型お試し移住「大人の島留学」など、ユニークな制度を展開しています。そのうちの1つ、親子島留学を利用して、2020年春から期間限定で島暮らしを経験した田仲亜希恵さんに話を伺いました。

 


選択肢の1つだった離島留学


「移住のきっかけは娘と息子の教育でした。今は自分たちの時代と違っていろいろな選択肢があるのに、子どもがその選択肢を知らずに教育課程に進んでいくということに疑問を感じていて。できるだけ自分で選択する力をつけられるようにと、上の娘が幼稚園の頃からいろいろな学校を見に行っていたんです。離島留学はその選択肢の中の1つでした」

 


海士町の親子島留学は、1年間という期間限定で島暮らしをし、生き抜くための知恵や忍耐力を身に付けてもらおうというプログラムです。対象は小学2年〜中学2年生のお子さんとその保護者で、希望すれば最大1年の延長も可能。離島留学というと、当時は大々的に広告を打っていた鹿児島県南種子町の宇宙留学制度が目についたそうですが、田仲さん親子は最初から離島留学を考えていたわけではありませんでした。公立や私立のほか、インターやオルタナティブスクールなど、折を見ていろいろな学校を見学し、娘さんと一緒に進学先を考えてきました。

結果的に娘さんは友だちの多い地元の公立校への進学を希望したため、一度はそこへ入学します。ところが入った小学校は生徒数が多く、小規模コミュニティを望んでいた親子は改めて別の学校で学ぶことを考えるようになります。そこで2019年10月、娘さんが小学校1年の秋に初めて海士町を訪れたのです。

島の港から一番近い海水浴場、レインボービーチ。フェリーや高速船がすぐそばを行き交う島ならではの風景。


初めて訪れた島で熱烈な手紙を


「島留学を希望する人は、事前に島の暮らしや文化を知る島育体験に参加することが条件の1つでした。島育体験に参加した時点では、今後娘が何かにつまずいた時、“生き方にはたくさんあって、こういう選択肢もあるよ”ということを言ってあげられればという程度だったんです。

隠岐に行くのは初めてでしたが、親子3人2泊3日で行って、帰る頃には“こういうところに来るのもいいのかもしれない”と思うようになっていました。ただ、娘は生まれ育った環境を一度も離れたことがなかったので、その不安から“絶対行かない!”と言っていたんです。でも帰り際に、ゆくゆく同級生になる女の子に“待ってるよ!”という熱烈な手紙をもらったことで、少し心を動かされたようでした」

結果的に島留学への申し込みを決めた田仲さん親子。島育体験から申請の締め切りまで1ヶ月もなかったため、「短期間でどうするかを決めたのも、逆に娘にとっては良かったのかもしれません」と話します。

海士町では、至るところに牛がいます。島の地形を活かして放牧され、のびのび暮らす島のブランド牛、隠岐牛たち。


お山の教室の存在が移住の決定打に

森のようちえん形式の「お山の教室」は、「隠岐島前教育魅力化プロジェクト」の1つとして、海士町教育委員会から支援を受けたNPO隠岐しぜんむらが運営しています。

田仲さんが海士町への短期移住を決めたのは、上のお嬢さんの学校のことだけではありませんでした。島には「お山の教室」という認可外保育施設があり、そこに惹かれたことも移住を決めた大きな理由だったのです。

「3歳下の弟の教育も考える中で、自然の中で伸び伸び育てるお山の教室の存在を知りました。戸外教育が基本で、その時々の子どものやりたいことや感覚を尊重してくれる環境だったので、ぜひ息子をここに通わせてみたいなと。当時大阪で行っていた保育園は人数が多く、先生が右と言えば右へ倣えするような園でした。でも子どもには自分で考えて行動することを大事にして欲しかったので、休みの日はNPOがやっている野外活動や森のようちえんに連れて行っていたんです。

大阪では自分の仕事と娘のことがあるので毎日通わせることはできませんでしたが、海士町には小規模校も森のようちえんもある。なので、お山の教室がなければ移住していなかったと言えるほど決定打になりました。

それから、母子で行く以上、極力災害の少ない土地に住みたかったので、最初から太平洋側は候補から外していたんです。知らない土地で頼れる人もいない状態で、もし何かあった時に自分がどう動けるかを考えて、なるべく自然災害の少ない場所を選びたかったんですよね。なので日本海側の環境の良いところで探して、海士町を選びました」

最終的に、上の娘さんが小学校2年生、下の息子さんが幼稚園年中になるタイミングで島暮らしを始めた田仲さん。住む家や仕事など、不安に思うことはなかったのでしょうか。

お山の教室でのひとコマ。子どもたちの希望を聞いて、毎日島のあちこちに出かけます。
 
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