島根県・隠岐諸島の1つ、中ノ島(海士町)では、15年以上前からさまざまな移住支援制度を行い、今では住民の2割が島外からのIターン移住者になっています。そんな海士町に、2020年春から期間限定で移住した1組の親子がいました。前回の記事で紹介したように、大阪で暮らしていた田仲亜希恵さん親子が移住を決めたきっかけは、お子さんの教育でした。2年間の島暮らしを終えて帰阪した田仲さんに、島での暮らしや2人のお子さんの変化について伺いました。
島の人とのつながりが娘さんの変化に
海士町の離島留学制度「親子島留学」を利用して、小学生の娘さんと幼稚園の息子さんの3人で離島暮らしをスタートさせた田仲亜希恵さん。もともと決められていた期間は1年間でしたが、息子さんを通わせていた認可外保育施設「お山の教室」を卒園させてあげたいという想いから、1年間の延長を決めました。延長を決めたのは、島暮らしを始めて半年が経った頃。息子さんは島に来てからの変化が大きく、いいと思えることしかなかったそうですが、その一方で、娘さんは最初のうちは「大阪に帰りたい」とよく口にしていました。一時はお父さんの残る大阪に1人帰そうかという話まで出たそうですが、徐々に心境の変化が訪れます。
「娘がある時期から大阪に帰りたいと言わなくなったので、理由を聞いてみたんです。そうしたら、地域の人たちとのつながりがたくさんできるようになって、娘の中での島のコミュニティが形成されたというのが1つの理由でした。移住後1年ではなかなか子どもの気持ちや成長が追いつかなくて、もう1年過ごす中で構築されていった人間関係や環境に随分と助けられました」
「海士町には、親子島留学以外に大人の島留学という制度もあって、期間を決めて来ている大学生や社会人、高校の島留学生、それからちょうどコロナで海外に行けなくなっていたJICAの方たちも来ていたんですね。そういうちょっと先をいくお姉さんやお兄さんたちと私の知らないところでたくさん知り合えて、心の拠り所ができたのが一番大きかったようです。私自身もかなり救われたところがありました」
島暮らしを続けられたのは見守ってくれた方たちのおかげ
理学療法士の資格を持つ田仲さんは、島では平日朝から夕方まで診療所で働き、土日のどちらか1日は旦那さんの会社の仕事を行うという多忙な日々を送っていました。そんな時、よく訪れていたのが島のコミュニティスペース「あまマーレ」でした。
「保育園だった場所を改装したその空間は、いろいろな世代の島民が集う場所でした。そこで私は仕事、子どもたちは自由に遊んでいましたが、気づくと毎回違う大人たちが構ってくださっていて。普通に生活しているだけで顔見知りが増えていく島なので、そういうことの積み重ねが娘の安心につながっていったんだと思います。
島暮らしを始めた頃(2020年春)はちょうどコロナ自粛の真っ只中でした。当時は島の方たちの緊張感も伝わってきたので、大阪から来た私たちは極力出歩かないようにしていたんです。だから最初は顔馴染みもできませんでしたが、私が6月から診療所の仕事を始めたことで、自然と島の方たちが“診療所の田仲さん”として信用してくれるようになりました。仕事をしたからこそ地元の人とのつながりがたくさんできた。それは良かったですね。そこは他の島留学のお母さんたちとは少し違ったかもしれません。
ただ、診療所に勤めていたがゆえに大変だったのは、島から出られなくなってしまったこと。本土の米子まで渡ったり、近くの島後(隠岐の島町)に行くことはありましたけど、それも数えるほどでした。島に来て2年近くは大阪に帰れずでしたが、皆さんその状況を知っていたので、野菜や魚はもちろん、おかずを取りにおいでって頻繁に声を掛けてくれたり、本当に気にかけてくださったんです。そのおかげでいろいろな人との関係を深められました」
田仲さんがそう話すように、家の前には毎日のようにお裾分けの品々が置かれ、冷凍庫が鮮魚店状態になることもザラだったとか。
「島では、大阪でポンポン買っていたしめじが買えなかったり、小松菜が400円もしたり、お豆腐を使いたくてもどこの商店にもないなんていうこともありました。大阪で日常使いしていたものが日常使いできなくて、でも物価が高いのでみんな自分のところで消費する野菜は作っているんですよね。なので近所の方たちからの差し入れは、それはもう素晴らしかったです。中には何も言わずに置いていってくださる方もいるので、誰からのお裾分けかわからないなんてことは日常茶飯事でした(笑)」
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