同志少女・セラフィマが体験した、
「無かったこと」になるはずだったこと。


女性市民が慰安婦として連れてこられている現実を前に、モラルの問題ではなく、人間の尊厳、女性の尊厳としての目線で深く傷つく。敵兵を愛し愛人として生きる女性の生き方を目の当たりにし「女性を助ける、そのために敵兵を倒す」と確定させていた原理が揺らぎ混乱する。

彼女が所属する小隊は同じソ連軍の兵士から半ば畏敬と半ば嫌悪を込めて「魔女小隊」と呼ばれ、「あんなのが自分の女だったらどうするよ。殺しまくりの女房だぞ」などとからかいも受ける。「なあ、ドイツ女は最高だったよな! 女はああだろ、化粧っ気もあってよ」と陵辱の話をして男同士の結束を固め、その話を聞かせることで自分たち女性小隊に屈辱を与えようと意図される。「兵士たちは恐怖も喜びも、同じ経験を共有することで仲間となるんだ。……部隊で女を犯そうとなったときに、それは戦争犯罪だと言う奴がいれば間違いなくつまはじきにされる。上官に疎まれ、部下には相手にされなくなる」と、「特別優しい」と思っていた男性から、まるで強姦をするのは仕方ないんだと庇うように言われもする。

そして驚異的な狙撃スコアを誇る彼女は、マスコミに「通俗的で愛国的なヒロイン」であることも求められる。女性用下着すら当面は支給されない中で。そして、戦争が終わった後の彼女らはどんなふうに見られていくのか……。

 

これらの痛みは、先ほど書いた通り戦争という地獄の前ではかき消されてきました。「そんなもの、もっと苦しんだ人を考えると取るに足らないことだ、騒ぐな」と。もしくは同じ理由で自粛し、自分の痛みを癒やすこともなくただ蓋をすることでやり過ごし、激しく苦しむ人も多かったでしょう。だからこそ、この作品がこれまであまり焦点の当たらなかった、女性兵士に光を当てた意義をとても大きく感じます。人を撃つセラフィマら女性たちを美化することもなく、ただただそこにある痛みを描いているのです。

そしてあるはずです。他にもかき消されてきた個人の痛みが。それは子どもかもしれない、老人かもしれない、ルーツかもしれない。全ての、戦争を経験した人の痛みがまだまだかき消されています。それらは、本当に「騒ぐな」と言われなければいけないものなんでしょうか。戦争のあらゆる側面から、その痛みを抽出していく必要があるんじゃないでしょうか。

「痛みに耳を澄ます……過ぎた日々の証言としての痛みに……そのほかの証言はない、それ以外の証言をわたしは信じない。言葉は幾度となくわたしたちを真実からはずれたところへ導きそうになった。苦悩というものは、秘められた真実にもっとも直接関係をもつ高度の情報だと思う」と書くのは『戦争は女の顔をしていない』の著者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチです。

私は戦争を「知る」とはどういうことなのか、ずっと悩んでいました。今現在ロシアがウクライナに侵攻している中ですが、日々ニュースを追うだけで「私は戦争を知った」とは言えない気持ちがずっとあります。歴史を知り、戦況を知る。そして個人の痛みに触れることができたなら。もちろんそれで全てを知ったとは到底言えない、ほんのほんの一部でしょう。けれども小さくとも何かを知ることはできるように思うのです。

『同志少女よ、敵を撃て』
逢坂冬馬(早川書房)

独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために。同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした“真の敵"とは?

 

逢坂冬馬
1985年生まれ。明治学院大学国際学部国際学科卒。本書で、第11回アガサ・クリスティー賞を受賞してデビュー。埼玉県在住。

 
 
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