人権派として知られる著名ジャーナリストの性加害をきっかけに生まれた小説『生皮』は、直木賞作家・井上荒野さんの最新作。カルチャーセンターの小説講座で起きた性暴力の告発を、被害者、加害者、その家族たち、さらには目撃者や二次加害者など、様々な視点から浮き彫りにしてゆく作品です。

「小説を書くことは、自分の心の中に隠していることを覗くこと」と井上さん。作品に登場する女性作家・小荒間洋子は、それを「自分の皮を剥ぐ、裸になっていくこと」と表現します。性暴力について調べるうちに、くしくも浮かんだのは「生皮を剥がす」イメージ。両者はどこか重なるかに思えますが、そこには決定的かつ絶対的な違いがあると井上さんは言います。それは「自分が選んだことなのか」という点です。

 


映画、演劇、小説……芸術指導にある“一皮むけてなんぼ”信仰


「この小説でインタビューをいくつか受けたんですが、取材するライターさんや編集の方から『今だから言うけど、同じようなことがあった』って言われることが多くて。一般の方のレビューでもそのようなコメントも拝見しましたし、『荒野さん、見てきたんじゃないかと思うぐらい同じだった』というお手紙もいただきました」

井上さんがそう語るのは、作品の舞台となるカルチャーセンターの小説講座のこと。小説を愛し作家育成に情熱を注ぐ元編集者の講師・月島は、「気に入った生徒」には「一皮むけるための個人指導」もいといません。彼のお気に入りの受講者は名字でなく名前で呼ばれ、講義の後の飲み会では必ず月島の隣に座らされ……「あるある」に満ちたその世界は、昨今ハラスメントで話題になっている映画や演劇の世界にも、どこか通じている気がします。

「芸術の世界って、数学のように明確な正解がないじゃないですか。そういうクローズドなサークルの中で、指導者の言う“ここでは外の常識を飛び越えろ、でなければ上には行けない”などという芸術至上主義が容認されてしまいがちなんだと思うんですよね。だから加害者側はやりやすい。でも冷静に考えて、おかしいですよね。指導者とセックスしないと学べない芸術なんて。『俺と関係すれば一皮むける』なんて、これ以上の暴力はないと思います」

 


「まだ若い女と寝ることができる俺」という自己肯定と支配欲


そうした「よく考えたら当然」の前提を踏まえたうえで、加害者であるカリスマ講師、月島光一を見てみましょう。目をかけた生徒の数人が芥川賞作家になるなど、講師としての力量や小説への情熱には嘘はありません。生徒からの性暴力告発に対する「言い訳」すら、受講生たちには妙な説得力を持ちます。

「あの言い訳を書いている最中は、自分の中でも、月島としての整合性が取れてるんです。でも書きながら『この男はどこまで本音で話してるんだろう』と、ずっと思っていました。『今嘘ついてるな』と思いながら話してるのか、自分の言葉をまるっきり信じているのか。それは多分、本人も分かっていないんです。受講生に『いい小説を書かせたい』という思いは、ある意味本当なんだけど、いつしかそこに自分の欲望がまじっていく。結局セクハラってパワハラの一形態であって、そこにあるのは加害者の支配欲や自己実現欲なんですよね。歳は取ったけれど、俺はまだ肉体的に衰えていないし、若い女とも寝ることができる。そういう欲望との境界が見えなくなっているんじゃないかと。誰もがこうだとは思いませんが、私が書いた月島はそういうことだと思います」

小説がユニークなのは、この月島の28年前ーー担当する大作家にパワハラされている若手編集者だったころーーも併せて描いていることです。

「セクハラって、結局は女性を“一人の人間”としてどれだけ認識しているかということだと思うんです。やらない人はやらないけれど、人間は弱いから、そういう人でも場合によって揺らぐこともある。今回の加害者の月島もそんなこと思いもしない時代があったわけで、特殊な人が起こす特殊な事件ではないと思うんです。『誰だって加害者になりえる』とは言わないまでも、誰もが同じ延長線上にいるということは、書きながら考えたことです。月島がそうなってしまったのは、やっぱり女性を普通に消費していくようなミソジニー(女性嫌悪)の空気の中で生きてきてしまったからだと思います」

 
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