人に傷つけられた記憶はいつまで経っても残り続ける。でも、それ以上に残り続けるのが、誰かを傷つけた記憶だ。

僕が人生でいちばん傷つけたと思う相手は、他ならぬ母だった。

我が家は両親に姉2人の5人家族。弁も立ち、頭の回転の速い父とは対照的に、母は口数が多くない。無口というのとは少し違う。母は、流れている時間が他の人たちよりもゆったりしている。だから、5人で話していると、10分前に終わった会話を突然思い出したように蒸し返してくることがよくあったし、それは母の愛らしい美点のひとつだった。

ただ、そのマイペースな性格は状況に応じてはマイナスに働くこともしばしばあったし、せっかちな父と衝突することも少なくなかった。我が家は夫婦喧嘩の多い家だったが、思い出す限り両親が喧嘩をする理由の9割9分は、母の気質に父が腹を立てるところから勃発する。だから子どもの頃の僕は、母のよく言えば呑気な、悪く言うと少し鈍い性格を好ましく思っていなかったし、クラスで浮きがちな僕の集団に対する適合性のなさは母譲りだと思い込んでいた。

 

あれは、確か僕が小学4年生の頃だ。野球もドッジボールも好きではなく、男の子の乱暴な性格が苦手だった僕は、クラスで男の友達があまりいなかった。それよりも『りぼん』の話ができて、一緒に甘いお菓子を食べてはしゃげる女の子といられる方がずっと気楽だった。

中でも、同じクラスだったある女の子とはとても仲が良かった。学校が終わっては、しょっちゅう彼女の家に遊びに行った。『天使なんかじゃない』を教えてくれたのは彼女だったし(その頃の僕は『姫ちゃんのリボン』に夢中で、『天使なんかじゃない』はちょっと大人っぽいイメージだった)、Mr.Childrenの『CROSS ROAD』を最初に聴いたのも彼女の家だった。小柄な僕よりずっと背が高く、その端正な容姿は子どもばかりのクラスの中でも一際大人っぽくて華やかだった。そして、教室で浮きがちな僕を、彼女は決して差別しなかった。

だけど、あるとき、いつものように彼女の家に遊びに行くと、彼女はとても塞ぎ込んでいた。どうやら両親の離婚が決まり、彼女はお父さんと離れ離れで暮らさなければいけなくなったらしい。そのショックで、彼女は泣いていた。

あの頃の僕にそうした深刻な家庭の事情がどれだけ理解できていたかはわからない。でも、落ち込んでいる彼女をなんとか元気づけたくて、僕は言葉の限りを尽くして励ました。でもそれが彼女には同情に映ったのかもしれない。どういう流れで、その言葉に行き着いたのかは覚えていないけど、はっきりと彼女は僕に向かってこう言った。

「うるさい。よっちゃんなんて不細工なくせして!」

時が止まる、という瞬間を、僕はあのとき初めて体験した。ひどい言葉をぶつけられたということだけは、なんとなくわかる。だけど、心が咄嗟にガードしたのかもしれない。一瞬、何を言われたか理解できなくて。出会い頭にいきなり外国人に声をかけられたみたいに、僕は目を丸くして、ただ口を開けていた。

「こんな顔で生まれたのはお母さんのせい」容姿コンプレックスを抱える僕が、母を傷つけてしまったあの日の話_img0