あるいは、見ないふりをしている不安を突きつけられたような気持ちになるからかもしれない。今は1人で構わないと本気で思っている。だけど、その考えがいつまで続くかは別だ。いずれ年をとれば、身体機能も低下する。体が衰えてくると心も弱る。体の利くうちは何でも1人でやれたとしても、やがて立ち行かなくなることだってあるだろう。そのときのセーフィティネットとして他人と連帯していたいという保身の気持ちがないとは言わない。
でも、今の僕にはそのセーフティネットの当てはない。そんな保険のない将来から生まれる、本当にこのままでいいのだろうかという不安が、スーパーでお惣菜を買うおじいちゃんを見たときによぎったから、僕は可哀相と思ったのかもしれない。
だとしたら、それは輪をかけて傲慢な思想だ。だって、それは赤の他人のことを、ああなりたくない未来の反面教師として見たことになるからだ。自分の未来の理想像があるのは自由だとして、だからと言ってそれと異なるルートがすべて不幸なわけでも可哀相なわけでもない。そんな当たり前のことすらわかっていないことになる。
それじゃ、自分が結婚しているからと言って、独身の人をみんな「結婚できなかった人」とみなしている人と同じじゃないか。自分なりに価値観をアップデートしているふうに装っても、1枚皮を剥げば普段自分が辟易としている人たちと同類なんだという事実に、ほとほと嫌気が差してしまった。
なぜ人は他人を可哀相と思うのか。人に憐憫の目を向けることで優越に浸りたいのかもしれないし、自分より不遇な人を見て安心したいのかもしれない。あるいは、あんなふうになってはならないという自分への警告なのかもしれない。いずれにせよ、そういう感情に囚われてしまうこと自体が、自分を生きにくくさせている気がする。
だって、他人に向けた同情のブーメランはいずれ自分に返ってくる。いつの日か自分が年をとったときに、スーパーで1人でお惣菜を買っていたとしても、それを若い人から可哀相だなんて思われたくない。意地でも何でもなく、そう思う。
仮に僕が1人で家で死に、その発見が遅れたとしても、孤独死という結末だけで自分の人生を語られたくない。確かに最期は1人だったかもしれないけど、直前まで自分の好きなことを思い切りやって面白おかしく生きていたかもしれないのだから。それを1人で死んだくらいで、なかったことにしないでほしい。
でも現状はそうはいかないだろう。いつか僕が1人で死んだら、そのときはやっぱり可哀相と言われる気がする。孤独は悪いものなんだと世の中全体が思い込んでいる。とりあえず、自分が老いる頃までにはなんとかそういう社会を変えたい。
そのためには結局自分からいち抜けしていくしかないのだ。僕はそのルールとムードには従いません、と。その第一歩が、人を可哀相と思う気持ちを手放すことだと思っている。
自分が不当にジャッジされないためにも、他人を安直にジャッジするのをやめること。つくづく不完全な僕だけど、せめてそれぐらいはなんとかできるようになりたい。これは誰のためでも何でもなく、他ならぬ自分自身のためなのだ。
※次回は2023年1月7日(土)公開予定です。
構成/山崎 恵
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