「生きづらさ」をテーマにしたドラマや映画、歌はこの世に数多ある。僕はそういう作品が好きで、ぎゅんぎゅん共感しながら観たり聴いたりするのだけど、最終的な解決手段が「恋愛」だったり「他者から愛されること」だった瞬間、突然手を離されたような気持ちになる。

さんざん希死念慮を歌った歌が、最後の最後で「あなたと出会えて世界を好きになれた」なんて結ばれると、結局それか……と膝から崩れ落ちるし、生きる困難を描いたコミックエッセイがオチで恋人による救済を得ようものなら、ブルータスお前もか、と裏切られた気になって心が平べったくなってしまう。

どうして世の中はこんなにも恋とか愛とかに救いを求めるのだろう。そうじゃなくて、ちゃんと一人でも幸せになれると言ってほしい。誰かに強く愛されたり必要とされない人生も欠損ではないと描いてほしい。よくそんなことを考えている。

「恋愛」がつまらないものだとは思わない。「恋愛」が生きる力になり得ることも理解はしている。その上で、自分の人生において「恋愛」というものが特別いいものだとは感じられないのだ。

だから、「いい年なんだし、いつまでも独りじゃ困るでしょ?」と言われても、特段困っていないし、「いつかいい人が現れるよ」と励まされても、別に今がとりわけ不幸なわけでもないんだけどなと首をひねってしまう。あるいは「早く恋人をつくりたい」と焦っている人を見ても、今いち共感できなくて返答を濁してしまう。年々、「恋愛」に関する話題への苦手意識が強くなってきた感がある。

昔はそうでもなかった。ほんの数年前くらいまでは、素敵なラブストーリーにふれたらこんな恋がしたいと思ったし、自分が人並みに所帯を持つイメージを描いたこともあった。

でもこの数年で、それは自分の人生とは関わりのないものであるらしい、とはっきりわかるようになってきた。今ではラブソングを聴いても、「君」という歌詞に当てはめられる人が浮かばなくて全然入りこめない。恋愛ドラマでキャッキャはしても、それは想い合う2人が一緒にいるところを見てキュンとする“カップル推し”でしかなくて、どちらかに自分を投影して疑似恋愛的にときめくみたいな楽しみ方は、その機能をそっくりそのままアンインストールしたようなところがある。

 

なぜ僕はこんなに「恋愛」に対して距離をとっているのか。それは「恋愛」をすると、自分の嫌な部分がどんどん見えてくるからだ。コントロールできない感情に振り回されて、ついしたくないことまでしてしまう。要は、とても重い人間なのだ。

 

最後に人を好きになったのは、確か30歳になるかならないかくらいのとき。久しぶりの「恋愛」に、僕はものすごく舞い上がっていた。好きな人がいると、とにかく僕は尽くしたくなる。その人のためなら身の回りの世話も喜んでするし、時間も割くし、お金も出す。誕生日には、オリジナルのお祝い動画をつくって、0時ジャストにLINEに投下し、その人が好きだと言っていたキャラクターのグッズを街で見かけたら、頼まれてもいないのに買っては、かいがいしくプレゼントする。

最初は、相手も喜んでくれていた気がする。でもそのうち僕のそういう幼稚な愛情表現が鬱陶しくなる。僕は僕でそんなことにも気づかず、自分といるときに相手が時計を気にしたら泣きたくなるし、居酒屋でトイレから戻ってくるときに、相手が席でスマホを見ていると、それがたとえただネットニュースを眺めているだけでも、がっかりしてしまう。そして、どんどんワガママになる。

 
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