「怒る」という感情とどう向き合っていいのか、いまだに思いあぐねている。

基本的に、人前で怒るのはみっともないという教育を受けてきた。それは、我が家の躾というよりも、どちらかと言うと世間の常識として、自然とそういう考えを身につけるようになったという感じだ。電車遅延で駅員に怒鳴り散らしている中年を見ては恥ずかしいなと眉をひそめていたし、人に何かを教えるときも、昔は怒号も愛のムチと受け取られていたけれど、今は一瞬でパワハラ認定まっしぐら。

大人になれば、自分の感情をコントロールできて当たり前。なんならメロスとかマジでヤバい。あいつ、1行目から激怒してるし。と、怒りなんて私的な感情を晒すのは自分が未熟者と言ってるのも同然だと思っていた。

しかし、ここ数年、「怒る」ことへの見直しが世の中全体で広がっている気がする。理不尽な扱いを受けたとき、許しがたい言動を目の当たりにしたとき、人としての尊厳を踏みにじられたと感じたとき、「しなやかに」受け流すのではなく、抗議の意志を込めて怒る。「怒る」ことは、自分の旗を掲げることであり、理想の未来を実現するための戦いなのだ。

とカッコつけてはみたものの、「怒る」のってめちゃくちゃ難しい。特に仕事の場における怒りはなかなかのデリケート案件。僕の場合は個人事業主ですから、取引先にキレ散らかそうものなら、即刻失注の危機。編集者間のヤバいライターリストに名を連ねることになるでしょう。

かと言って、聞き分けのいい顔でなんでも飲み込んでいると、知らず知らずの間に「都合のいいライター」として雑な扱いを受けることも。人権のない納期とか、いつまでも支払われない原稿料とか、ぼやぼやしてるとうっかり蟹工船に乗っちゃうのがこの世界。令和だというのにひとりプロレタリア文学です。

「怒る」というのは自衛手段である一方、破滅のカードでもあるわけで、切り方を間違えれば、それまでの関係性を帳消しにする破壊力がある。だからいつも悩むのです、どのボーダーラインを突破されたら怒っていいのだろうと。

 


たとえば、僕は細かい修正作業があんまり好きではありません。特に僕のように複数のクライアントと複数の仕事を同時に並行して進める場合、原稿料が高いのもありがたいですが、手離れが早いのもメリットの一つ。原稿の戻しが来るたびに作業が増えますし、その修正料をアドオンされるわけではないので、工程がかさむほど利益効率の観点から見れば赤字になる。だから、できれば一発入稿ですませたい。そのためになるべく作業前に細かくすり合わせを行いたいタイプです。

 

一方、そういうすり合わせがあまり好きではなく、見切り発車で進めつつ、問題があればその都度対応していくタイプのクライアントもいまして。悪く見れば「その場凌ぎ」と言えますが、いいふうに切り取ると「柔軟」とも「臨機応変」とも捉えられるわけで。不確定要素の多い仕事という場面では、むしろこうしたアジャイル型の人間の方が重宝される気がする。

だから、結局そこは水と油。バイデンとトランプが飲み屋でカウンターに並んだら殴り合いになるように、事前にしっかりすり合わせをしたい僕と、細かいことはその都度決めていきたいクライアントが一緒に仕事をすると、マジで地獄。ひたすらヴェルディの『怒りの日』が爆音で流れる日々が続きます。

 
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