「他人への想像力」という聞こえの良い言葉を盾に、私も想像してつい勝手に書いちゃう
青山:大介さんは、お父様に対して「ネット右翼だった」と一度は断定したけど、そうじゃなかったとこの本で書かれていますよね。その人の言動の背景は、どこまでいってもわかりきれない部分があると思うんです。だって大介さんはお父様じゃないから。「この人はこうだ」「だよね!」と一致させながら人間関係を築くと、かえってズレた方向に行ってしまうんじゃないかな。人って変わりますし、そもそも自分のことだってわからない。この本は二つのものを同時に含んでいると感じています。決めつけてしまうという間違った部分。それと、もし間違って決めつけてもやり直せるし、やり直すプロセスで得るものがすごく大きいという部分。相反することだけど、両方書かれている。それがすごい。と同時に、「この本、むちゃくちゃ良かった!」と一言で言い切れない理由も、そこなんです。
今回の本を書き終わった頃、大介さんとお会いしたでしょう。あのときの様子をよく覚えています。もうヘロヘロになってて(笑)。「はーしんど……家族本もうやりたくない、すごくつらくて、気が重くて、もう嫌!」とおっしゃるのを聞いて、「あー良かった……」とほっとして。これが「俺、ホントに良いことやったよね、皆すごい良かったよね」ってドヤ顔をしてたら、ちょっと私、ものすごく困ったかも。人のことって、なかなかわからないし、人と人は簡単にわかり合えない。大介さんがそのしんどさを感じながらも、それでも知りたいと思われたのは、家族だからなのかな? 他人だったら「そんな面倒臭いの、もういいです」って関係を切れるけど、家族はそうはいかない部分がある。もちろん切るという選択もできる。ただ、どんな場合もそこまで考えさせられるのは、家族だからこそなのかなと。
鈴木:実際父が触れていたコンテンツだけを見たら、「この人はネット右翼だ」って断定する人の方が多いとは思うんですけど、確かに人を決めつけることは、「人物像の解像度が下がる」ことだと思うんですよね。低い解像度のままに放置することでもある。父の場合、発言や触れていたコンテンツだけでなく、若いころからの言動や距離感や、もう色々なものが被さっちゃって、なんか放送禁止の何かのモザイクド真ん中みたいな人物になっていて(笑)。醜いモザイクの父を見て「もう無理」となってしまっている状況から、徐々に解像度を上げて人物像が見えてくるんだけど、やっぱり100%クリアにはならない。
100%クリアになったら危ない、確かに僕もそう思う。100%クリアになった像が、自分の抱いている人物像から離れたら、やっぱり期待外れというか「あれ? 何で?」となるじゃないですか。人物像を一度定めちゃうと、想定外の動きをしたときに全部「おかしい!」ってなっちゃうから、やっぱり像はふわっとしたもので良いと思うんですよね。
青山:私は大きな問題が無ければ、多少モザイクかかっててもいいんじゃないかと思っちゃう。ただ誰かが誰かに対して暴力的であるとか、「しんどいな」と困っている人がいる場合はモザイクをある程度解明する必要がある。でもそんなに問題がなければ……例えばうちの父や夫や兄弟や、未だにどんな人なのか実はわからないし、向こうもわかんないって思ってる。だけど何となくお互い「まあまあ、そこは」って保留にして許せる範囲でやっていけているのは、むしろモザイクのおかげかなという気もします。
今回の本を読んで、勝手にお姉様の気持ちになって考えてみると、「自分が言えなかったことを言ってくれて大介、ありがとう」という気持ちと同時に「私は大介とは違う関係で父とやってきたんだから、その土俵に私の話を乗せないで」という気持ちもあるんじゃないか、と思って。「他人への想像力」という聞こえの良い言葉を盾に、私も想像してつい勝手に書いちゃうんですけど。書き手としてその人を語るとき、それはある側面に限られるのではないか。「あくまで『私』の視点でしかないのかもしれない」と、書き手は疑わなきゃいけないという原点に立ち戻される思いでした。
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