塾をサボって向かったのは?
「ある日、塾から電話がかかってきて、『昨日と今日の教材は郵送だと時間がかかるからできれば親御さんが取りに来てください』と言うのです。あっと驚いたものの、辛うじて平静を装って電話を切りました。昨日も今日も、息子は塾に行くといって家を出たんです。
夫は税理士として独立していて、近所に小さな事務所を開いています。息子が塾から帰るまではギリギリまでそこで仕事をしていました。塾の電話を取ったのが私で良かった。本当にそう思いました。本能的に、息子が塾をサボってどこかにいるんだろうと分かりました。とても真面目な子です。軽い気持ちでサボるタイプではありません。とにかくじっと待っていました」
すると響子さんが予想したとおり、塾の帰宅時間帯になると息子さんは帰ってきたそう。英太さんが不在なのを幸いに、響子さんは昨日今日どこにいたのと尋ねます。
すると息子さんはうつむいて「塾に行こうとしたけど、授業テストがどうしても満点を取れる単元じゃなくて、怖くて行けなかった。公園の大きな池の周りを4時間ひたすら歩いていた」と答えました。
「ボートが浮かび子どもが楽しそうにしている池の周囲を、10キロ近い教材が入った塾バッグを背負い、何時間も歩き続ける息子を思い浮かべて号泣しました。そこまでテストが怖かったのは、夫に落胆され、罵倒されるのが怖かったから。張り出されて、首位から転落したことを塾にとがめられるのが怖かったから。そして私を悲しませたくなかったから。大人の都合と思惑をたっぷり吸いこんでしまった息子は、本気で1番でないと自分に価値がないと思っていたのです」
響子さんはすぐさま塾に電話、しばらく塾を休むと伝えます。講師は何事かを電話の向こうで怒鳴っていたそうですが、とにかくそれを押し切った響子さん。それから息子さんにたっぷり食事をさせ、今夜はもう寝るように言うと、夫の事務所に向かいました。
今日の経緯を話すと、英太さんはこの時期に塾を2日も休むということがどういうことなのか分かるか、頭を抱えてうめき、絶句します。
その様子を見て、響子さんは英太さんが見ているのはすでに息子ではなく、合格への計画表と、それをいかに効果的にクリアしていくかということだと悟ります。
「夫は、とてもいい人なんです。真面目で、努力家で。息子のことだって心から愛していた。そのことは昔から彼を見ている私にはわかっていました。最愛の息子に、自分が得られなかった最高の教育と環境と親の愛を与えようとしていた。勉強が得意な自分が伴走して、お金も時間も愛情さえもかければ、絶対にうまくいくはずだと妄信していたんです。そういうものがあれば全部人生はうまくいくんだと。
……悲しい思い込みです。夫婦と言えども、出会うまでは完全な他人で、出会ってからも別の人生なんだと痛感しましたね。彼がこれほど固い決意で突き進んでいるその原動力……もっといえば生い立ちの痛みを私は理解することができないし、間違った方向に進んでいても阻止することもできない。夫婦って、近いのに遠くて、もどかしいですね」
響子さんは、息子さんが自分のために頑張れるようになるまで、どうかそっとしておいてほしいと英太さんに頼みました。しかしそれではこれまでの努力が台無しになる可能性があります。
「あと少しなんだ。もう少しで、あいつに頂上の景色を見せてやれる。ここで退くなんて絶対にありえない」
英太さんはなかなか譲りません。響子さんは必死で妥協点を考え、「子どものことはどうしてもカッカしてしまうから、ここからの勉強に関することは塾に任せよう。親はサポートに徹しよう。それができないならば、中学受験をやめよう」と提案。さすがの英太さんも、息子さんの様子を心配したのか、あるいは撤退だけは避けたいと思ったのか、一度はその提案を受け入れたと言います。
しかし、どうしても成績に一喜一憂してしまうことは避けられません。そこで響子さんは、英太さんには模試の結果を見せないようにしたり、これまでは英太さんが出ていた塾の保護者会や学校説明会にご自身で参加したり、必死で「防波堤」になる努力をします。1次情報にあたるのは響子さん。英太さんにはマイルド化した情報をできるだけポジティブに伝えます。
一方で息子さんには、「どこでも素晴らしい学校だよ」「中学受験なんてひとつのステップだからね」と声をかけ続けたと言います。
いい方向に向かっているかにみえた一家の関係性。しかしやはり、そう簡単にはいきませんでした。
Comment