車はバンコクの街をなめらかに走り始める。昼間は日照りで暑さがひどかったけれど、夕方になって雲が空に立ち込めている。こんな空の色の日は、土砂降りのスコールが来る。

東京でも夏の豪雨が増えて、私が働いていた頃も外回りでよく降られていた。スーツは濡れてしまうと厄介で、1足しか持っていなかった黒い革のパンプスもひどい有様になる。翌日も得意先回りがあると、夜のうちに乾かさなくちゃならないから、新聞紙を詰めてドライヤーで乾かしていたことを思い出す。

母の死後、なんとかアルバイトで大学を卒業し、結婚するまでは少ないお給料で一人暮らしをしていた。切り詰めて頑張っていたと思う。あの頃から見れば、本当に恵まれた生活だ。文句を言ったらバチがあたる。

「上司の奥様の誕生会に、みんなでお揃いのドレスを仕立てて...」駐在員の妻たちの息苦しい結束_img0
 

――でも、あの頃のほうがずっと自由だったな。

雨雲から、もう耐えられないという様子で大粒の雨がぼたりと落ち始める。あっという間に、視界がかすむほどの大雨。露店を出していたひとたちも、大急ぎで荷物を畳んで屋根の下に避難しはじめた。

「奥様、渋滞が。パーティには間に合わないかもしれません」

サムットさんはできるだけ車を前に進めてくれたが、ほどなくして渋滞に巻き込まれてしまった。バンコクはおもな移動手段が車なので、スコールと通勤時間帯が重なると、少しも前に進まなくなってしまう。

「ありがとう。このぶんだと、遅刻しちゃいそうね……」

手に持ったバスケットのなかの、焼き立てのスコーンをちらりと見る。料理は嫌いじゃないけど、私にはお菓子作りの習慣が皆無だった。東京で暮らしていた頃はそんな余裕は私の人生になかったから。お母さんもいつも忙しくて、一緒にケーキを焼くなんてドラマの世界だと思っていた。

でも今は、レシピを検索して、駐妻会に持っていくお菓子をつくる。こういうのを楽しめるタイプだったらよかったのに。ほかの奥さんたちは、花嫁修業でどこそこの料理学校で習ったの、などといいながら素敵なお菓子やお料理を持ち寄る。そのたびに、胸の奥がちりっとする。裕福とは言えなかった子ども時代、結婚前の自分を、かわいそうだと思う。

「こういう生活を楽しめればいいのにね……」

思わず独り言。サムットさんが、ちらりとバックミラーごしにこちらを見た。

――パーティのあと、もしよかったらルーフトップバーに移動して二次会はいかが? 人気の新しいお店、コネで予約OKです!

メッセージが入ると、次々にいいね! OK! の可愛いスタンプが連打される。

20時くらいには引き上げて、家で本を読もうと思っていたのに、それもどうやら叶わなそう。

気が進まないなら行かないと明るく言えばいい。みんな大人だから、そんなことで仲間外れにしたりしないだろうし。

はっきり言いたいことを言えずにモヤモヤしているなんて、結局は自分の問題なのだ。

……そう思うものの、さまざまなものが私に結局は「いいね!」とスタンプを送らせる。

生い立ちへの劣等感か、華やかな奥さんたちへの引け目か。夫の出世に支障をきたしてはこまるという打算。いいひとでいたいという保身。

なんとなく参加しておけば、それが一番楽だから。

本当は、ちっとも楽しくない。家でお風呂に入って、心行くまで本を読んで、自分のペースで自分の毎日を積み重ねていきたい。勉強もしたいし、田舎の町まで行ってみたい。屋台みたいなローカルのお店にいきたいし、せっかくタイにいるのだから日本語のおしゃべりだけじゃなくてタイ語やタイ料理を習ってみたい。

豪華ホテルのアフタヌーンティも凝ったカルトナージュも、私にとってはさほど魅力的には思えなかった。

 

「奥様。今日はもう、この道はダメかもしれませんね」

突然、サムットさんがそんなことを口にした。