「障害者は子どもを産むべきじゃない」という意見はメインストリームになりつつある


そうなんです。本来、障害とは社会の中にあるんです。私たちの意識の中にあるんです。それをなくす努力を怠って、健常者だけが不自由せずに生活できる社会で満足している。障害者施設を社会から隔離された存在にして、蓋をしている。不都合な存在を隠蔽するのはいつも社会の側なんです。

「障害者は子どもを産むべきじゃない」という本音は、もはや不謹慎な隠された本音ではなく、メインストリームになっているように感じます。障害者を殺すのはよくないこと、でも障害者は子どもを産むべきではないと思っている人は多いと思います。でも、どちらも剥き出しの優生思想であり、同根だと思うのです。たとえ障害を持っていても、健常者と同じように暮らせる社会になっていたら、同じ事が言えるのだろうか、と思うのです。社会の責任を果たさずに、障害者の存在を否定するのは間違っています。

「障害者は子どもを産むな」「障害者は社会にいらない存在」映画『月』があぶりだす、誰の心の中にも存在する優生思想_img0
写真:Shutterstock

さらに、やはり筆者は、生きるにふさわしい人間なのか、逆に生きるべきではない存在なのかを他者が選別することが、とても恐ろしいと思います。さとくんにとってその基準は「心があるか」でした。心があるかどうかの判断基準は、しゃべれるか、意思疎通ができるか、です。でも、意思疎通ができないから、心がないなんて、なんで決めつけられるんでしょう。自分の基準で命の価値づけをするのはさとくんだけじゃなくて、社会の人々もそうです。経済的な利益を生み出す人、頭がいい人、何か秀でた才能がある人、見た目がいい人。そういう人は生きるべきで、さらにはそういう人たちが優秀な遺伝子を残すべきで。逆に、低所得者や生活保護受給者は社会のお荷物で、子どもなんて産むべきではない、なんて言う人もいます。

でもその選別、線引きって、その人の主観でしかないんです。どこまでも独善的なんです。人間の命の価値を人間がはかる。それはやっぱり間違っていると思います。


 


映画『月』 公開中

深い森の奥にある重度障害者施設。ここで新しく働くことになった堂島洋子(宮沢りえ)は“書けなくなった”元・有名作家だ。彼女を「師匠」と呼ぶ夫の昌平(オダギリジョー)と、ふたりで慎ましい暮らしを営んでいる。洋子は他の職員による入所者への心ない扱いや暴力を目の当たりにするが、それを訴えても聞き入れてはもらえない。そんな世の理不尽に誰よりも憤っているのは、さとくんだった。彼の中で増幅する正義感や使命感が、やがて怒りを伴う形で徐々に頭をもたげていく――。

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上映時間:144分 / 製作:2023年(日本) / 配給:スターサンズ
©️2023『月』製作委員会


文・構成/ヒオカ
 

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