平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。
そっと耳を傾けてみましょう……。
第71話 パソコンがない
「達也くん、今日はおうちでごはん食べられるかな?」
玄関の横にある鏡でネクタイを直していると、妻の佳織が見送りに出てきた。
「いや~、見たらわかるでしょ、このネクタイ。今日さ、接待なんだ。取引先が最近景気いいみたいで。羽振りがいいから、だいぶ遅くなるよ、3次会、4次会まで引っ張りまわされると思う」
「そうなのね、残念……。達也くんが水炊きを食べたいっていうから、美味しいって評判の鶏を取り寄せたのよ」
「お! いいね水炊き。週末にさ、ゆっくり頼むよ。日曜はうちにいるから」
「日曜? 明日は何か用事があるの? ドライブがてらコストコに連れていってもらおうと思ったのに」
佳織がすかさずつっこんできて、丸い頬をますます丸く膨らませる。ぜんぜん可愛くない。が、ここで機嫌を損ねたら大変だ。
「あー、いいよコストコくらいなら午後からいけるし。ほら、今夜、多分徹夜で接待飲み会だから、明日は使いものにならないかなって思っただけ」
「そう! よかった、約束よ。来週のホームパーティの準備でいろいろ買いたいものがあるの」
……お気楽なもんだ。オレは内心けッ、と毒づいた。こっちが必死に働いて、ようやく事業開発課長になろうかっていうときに。
考えていることが顔に出たのか、佳織が訝し気にこっちをのぞき込んできた。いけないいけない。
「じゃ、そういうことで。夜、玄関のチェーンはかけないでくれよな。先に寝てて」
オレは慌てて玄関を飛び出した。マンションの内廊下を早足で歩きながら、次第に心が浮き立ってくるのを感じる。いくら大企業だからって、こんないいマンションに住めるのは、あいつの親がまとまった金額を援助してくれたから。そのぶんいろいろ目をつぶらなきゃな。
佳織の「追求センサー」はある意味正しい。今夜は接待なんかじゃない。カノジョの美優の誕生日。とっておきのデートの予定だ。
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