エッセイスト・小島慶子さんが夫婦関係のあやを綴ります。
夫に初めて会ったのは赤坂の路上だった。砂場という蕎麦屋でスタッフとの顔合わせがあるというので、夏の暑い日に当時勤めていた放送局から歩いて行ったのだが、店の前の歩道に大柄で黒い服を着た男性が立っていた。挨拶をすると、目をぐっと見開いて笑って、首を前に出しながらよろしくお願いしますかなんか言った。坊主頭にメガネをかけていて、なんかこう、グイグイ押してくる感じがあった。当時のテレビ業界にありがちな「俺って面白くて陽気な人ですよ」的な押し出しと同時に「お願い、こっちに入ってこないで!」と両手で押し返してくるような妙な圧があった。笑いながら怖がっている人みたいだなと強烈な印象を受けた。
蕎麦屋の暖簾をくぐったら、店の奥で待っていたプロデューサーというのがそれにも増して絵に描いたような“業界人ノリ”のおじさんだった。ひっきりなしに冗談を言っては、その場の全員が食い気味に笑う……という私の苦手な空気。「俺って面白い人でしょ」と他人に同意を強いるようなバイブスを出している。当時のテレビ業界にはよくいるタイプだったが、まだ入社して3年ほどだった私はそんな男たち(女性Dは数が極めて少なく、かつそういうノリの人はいなかった)を面白がると同時に、いつも歪なものを感じていた。
ひとしきりプロデューサーのトークを聞き終わると、のちに夫となる人物がロケの説明を始めた。親切な説明だった。見ていて「ないな」と思った。ないなというのは、一緒に海外ロケに行っている間にうっかり好きになることはまあないだろうという意味だ。当時私には付き合っている男性がいたので、10日以上も海外に行っている間に何かが起きる可能性もなくはないと懸念したのだが、これはない、と思った。本能的に惹かれる性的な魅力を特に感じなかったからだ。
後年、その時のことを聞いたら、夫は黒いワンピースかなんかを着て歩道をやってくる私を見て「ずいぶん背が高くてガシガシ歩いてくる人だなあ」と思ったらしい。当時(1997年)私はプラダのプラットフォームシューズかなんかを履いていたので、ヒール込みで180センチくらいあったはずだ。のちに夫となるそのディレクターとは3センチほどしか身長差がなかったはずなのだが、記憶の中では子供が大人を見上げるような映像になっている。それだけ男側の「こっち入ってこないで」の圧が強かったんだと思う。と言ってもマッチョな印象ではなく、とにかくなんかすごく余裕がない様子で、一体この人は何を怖がっているんだろうと不思議だった。
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