気になる親子
袋には「木村愛理」とかいてある。去年の冬、雨の日に来たあの親子のことははっきりと覚えていた。お母さんの、切羽詰まった様子を昨日のことのように思い出す。
「あの時、お母さんは3000円置いていきましたけれど、お財布のお札入れには本当にそれしか入っていませんでした。あのあと、大丈夫だったのかな……先生が、お代はいつでもいい、って言ってもちゃんとそれは支払っていかれましたよね。だから絶対、翌週は来ると思ったのにな」
愛理ちゃんの奥歯の被せものは、上等なセラミック。私は知っている、これは保険が適用されるセラミックの、もうひとついい素材のもの。まだ成長途中の顎をもつ子どもにはこちらのほうがいいんだと先生が言ったことがある。
カルテの医療点数はもちろん、そのまま。一番患者さんの負担が少ない請求になっていた。
「いや、まだこれはここに置いておきましょう」
先生は、私の掌からひょいと小袋を取りあげると、それを私の目線の先の棚のはじに置いた。「スタメン」の位置。いつでも愛理ちゃんが来たら、取り出せるように。
私は「そうですね、そうしましょう」と言うと、そのまま先生と並んで棚を整理した。
うん、いい職場。ぜんぜん儲からないけれど、ずうっとここで働きたい。
私は離婚して、子どももいない。自分だけ食べさせていければそれで充分。
先生は、私にそういうことを何にもきかない。例えば「前の旦那さんはどんな人だったの?」とか。「彼氏はいるの?」とか。「この先もずっとここで働くつもり?」とか。
だから私もきけない。
先生がここを継ぐ前に結婚していたことがあると古い患者さんから聞いても、「奥さんてどんな人だったんですか?」とか。「いまでも気持ちが残っていますか?」とか。
なかでも「ずっとここで働いてもいいですか?」は一番、きくのが怖い質問だった。
でも、最近ではそれがききたくてたまらない。
――きいてみようか。
今夜なら、きけるかもしれない。もう4年も働いているんだし。
先生はこの医院の2階に住んでいて、とりあえず特定の彼女はいないんじゃないかな、と思う。電話が歯科にかかってきたことはないし、診察中はスマホもほとんど見ない。土曜日も仕事だし、日曜日の夜も、医院の前を通りかかるといつだって温かい灯りが2階のカーテンの隙間から漏れている。
きけるかもしれない。こんな雨の日の夜に、二人きりなら。
「先生……」
私が口を開くと同時に、受付の前のドアについたベルが、カラン、と鳴った。
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