孤独な教習生活


教習所の古びたトイレの洗面所は、きゃっきゃとはしゃぐ若者で占拠されていた。ああ、友達がいて羨ましい。最近紘一としかおしゃべりしていない。

かと言って、もはや娘でもおかしくないような彼女たちに話しかける勇気もなく。私は最低限の挨拶のみ、いつも曖昧に微笑むばかりだった。

「やったー! 親は今日、19時まで教習だと思ってるからさ、それまでイオンでなんか食べよーよ」

「いやいや、なんで授業ないか忘れたん、雪降るよ! どかっと降るやつだから、早く帰ろ。送迎バス乗らんと帰れなくなるよ」

私はさっきスマホの充電が切れる前に見た天気予報を思い出す。とくに大雪注意報も出ていなかったが、夕方からずっと降るという。たしかに外は、一気に教習エリアの疑似車線を消す勢いで雪が降り始めていた。しかしなにも全部教習をキャンセルすることもない。このくらいの雪の序盤、東京と変わらないではないか。

女の子たちの団体が出て行ったあとでトイレを済ませ、廊下に出ると、もう電気が半分消えていた。所内はゾッとするほど暗い。時計は16時を指していた。急いで正面玄関に行くと、なんともう送迎バスは出発してしまったあとだった。

――ち、ちょっと、点呼とか声掛けとかしようよ! って、するわけないか……。

焦ってきょろきょろするものの、職員さんも、おじいちゃん教官たちも、一目散にマイカーで帰途についたのか、がらんとしていた。教務部の掲示板を見ると、古びた路線バスの時刻表が貼ってある。たしか、教習所を出て300メートルくらいの国道沿いに、駅前方面のバス停があった。

――しょうがない! 15分に1本なら、まあなんとかなるでしょ。

 

玄関から外に出ると、外の冷気が吹きるける。何もない町の、さらになにもないエリアにある教習所。雪原を切り取った柵が、辛うじてそこに教習所があるということを主張している。

驚異的なスピードで、地面が雪に覆われ始めていた。

 

しっかりしたスニーカーで来て良かった。少しでもヒールがあったら一巻の終わりだっただろう。私はノースフェイスのダウンのチャックを首元まで引き上げ、フードをかぶる。マフラーをしっかり巻くと、両手をポケットに突っ込み、足早に建物を出た。

「わあ……キレイだな……夢の世界みたい」

私は思わずつぶやく。薄闇のなか、ミルク色の空から、白い雪原の上に雪が無数に舞い落ちる。

しかし、うっとりしている場合ではなさそうだ。教習所の敷地から出て、国道沿いを歩くと、歩道なのか道路なのか、縁石さえも白くなって境界が曖昧になっている。北海道独特の「ここが道路の端っこ」と示す矢印の標識が頼りだ。道路のアスファルトはところどころはがれて、東京のように滑らかではない。転んだら大変なことになる。

その時はじめて、ここでもしも足をくじいて動けなくなったら、どうなってしまうのだろうとぞくっとした。

視界は急速に暗くなり、雪は真横から吹き付け始めていた。早くバス停まで行かなくては。バス停はちょっとした雪囲いがあり、屋根らしきものもあったはず。

雪に足を取られ、なかなか進めない。あたりは暗くなりはじめ、街灯というものが少ない夜道は闇に飲まれるのだということを実感した。国道にまばらにたつ、オレンジの背の高い明かりだけが頼りになるだろう。

――街灯沿いにいけば、バス停にたどりつくはず……!あと200メートルくらい? 大丈夫よ、大丈夫。

スマホはどこだったか、と考えて、充電が切れていることを思い出し、心臓がひとつ大きくはねた。さっきから国道には、バスどころか車も通らない。バスが来るはずの時間はあと10分ほど。あきらめて校舎に戻ろうか、という考えもよぎるが、バス停まで行かないことには家に帰れない。

……このとき、バス停に行こうとしたことは、「平常バイアス」というやつではないかと思う。大した事はない。目的を変えたくない。教習所から帰るだけ。大丈夫、大丈夫、と私は胸のうちで唱えていた。

その判断が、さらなる窮地に、自らを追い込んでいく。

次ページ▶︎ 吹雪は少しずつ、本格的に……。いつの間にか、夕闇が迫る。

北の大地に、予想もしない落とし穴が……?
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