完璧な理想を体現する女


「恵梨香先生はいいなあ~、こんな素敵なサロンのオーナーで。私の理想です」

レッスンのあとは、先生が淹れてくれるお茶を飲んでから帰宅する。おしゃべりしたい気分のときや、相談したいことがあるときは、紅茶のお代わりをたのめばそれが合図だった。――今日のように。

「うふふ、そう? 志保ちゃんだって立派なネイリストじゃない?」

小柄で華奢な先生は、手足もすらっと細くてお人形さんのよう。じつは左足が少し悪くて、階段を上るときは手助けが必要だという。「だから本当は一軒家が良かったんだけど、マンションにしてもらったのよ」と言っていた。でも私なら、このペントハウスのほうがずっといい。

「ネイリストって言っても雇われの身ですもん。あ~、私も恵梨香先生みたいに素敵なサロンをオープンするのが目標です。道は遠いな……」

恵梨香先生は紅茶の葉っぱを変えて、新しいポットを持ってきてくれる。ゆっくり話をきく態勢に入ってくれているのがわかった。

リビングは白が基調で、ところどころでピンクとゴールドが効果的に使われている。極めて効果的に。

「あらあら? もしかして何か悩んでる?」

「……わかります? ねえ先生、32歳の頃って何してました? もうご主人と結婚されていましたよね? 少なくともお付き合いはしていたでしょう? 私、結婚したいんです。でも彼が、ぜんぜんその気がなくて」

ふうむ、それは困ったわねえ。

 

恵梨香先生は、むむむ、と形の整った唇をへの字にそらして空を睨む。先生がそう言うと、なんだかささいな悩みに聞こえるから不思議だ。

 

しかし実際、私はここ最近ずっとそのことについて悩んできた。

彼氏の智也は3歳年上の35歳。バーテンダーで、雇われ店長として西麻布で働いている。

共通の友人がいて、飲みに行くようになり、付き合い始めたのは28歳のとき。平日に休みがあるのは同じだったが、どうにも時間が合わない。不便だからとなんとなく同棲してしまったのが運の尽きで、完全に結婚するタイミングを逸してしまった。

さすがに結婚するか別れるか決めなければ……と1人で焦るものの、仕事が面白くなり始めた智也はそんなことは念頭にない。おまけにバーテンダーというのは大変にモテるということを痛感する毎日。

カウンターの中の智也は、端正な笑顔で、曖昧に微笑んで話を聞くのだろう。それが1人でやってくる常連の女性たちをとにかく惹きつける。私だってネイリストとしてお客様に営業のDMをすることもあったから、智也はもっとそれが必要なこともわかる。

しかし、同棲してそんなことを知るようになると、果たして彼と結婚するのが正解なのかどうかと考えこんでしまう。

……智也と結婚しても、恵梨香先生のようなライフスタイルは望めない。

いや、智也と結婚しなくても、自分にはそんな可能性があるとは思えない。それならばせめて、現時点で一番好きな智也と結婚したいと思う。それは打算だろうか、妥協だろうか? それとももしかして高望み?

さまざまな物思いは、アイシングクッキーの信じられないほど細かいフリルを作りこんでいるときだけは忘れられた。

損得のない没頭は素晴らしい……。

「じゃあ、私が結婚したときの話をしようかな?」

恵梨香先生が、ポットにカバーをつけて、にっこりと微笑んだ。
 

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春の宵、怖いシーンを覗いてみましょう…。
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