「女性ならでは」でも「典型的ケイコ」でもない、平凡で唯一無二な生身の私


女性に共通しているのは「この社会で女をやることはしんどい」っていうことです。個別バラバラの体験が同じ構造の中で起きていることに注目すれば「女性の共通課題」が見えてくる。ジェンダー平等がお好きでない方々はその話になると「いやそれは個人の能力と努力の結果であって、女性差別でもジェンダー格差でもない」と言いますね。ところがいざ女性が能力を発揮できる場に立つと「女性ならではの感性と共感力で」と、女の枠に押し込めるのです。都合のいい話です。その「女性ならではの」という言葉は、まさにこの社会が男の感性と男の共感の産物であることの証しでしょう。

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ですから、バービーランドとリアルワールドが実は地続きなのもさして不思議ではありません。ある日、おもちゃ会社の悩める中年女性デザイナーがついつい陰キャのバービーを描いてしまったせいで二つの世界が混ざり合ってしまうのですが、現実を突きつけられて最もパニックになったのはお人形たちじゃなくて、妄想世界の創造主でした。かわいい女の子たちが手のひらの上で自分の与えた自由を夢見る理想の世界が、個人の悩みや疑問や自立や、自分以外の男(ケンたち)の覚醒なんかでめちゃくちゃにされて大憤慨です。

 

しかしよく考えてみましょう。この世のバービー(とケン)のほとんどは、バービーランドにはいないのです。散らかった子供部屋やカビ臭い物置の箱に放り込まれた無数の名もなきバービー(と少数のケン)こそが、実在するバービーとケンです。みんな同じ名前、同じ形、同じように物質的で、大量生産のおもちゃ。もう誰からも、持ち主からさえも忘れられている。だけど、全部が違うバービーとケンです。何千万人のバービーのどこにも「典型的な」バービーなんていません。どれも平凡でありふれた、だけど唯一無二のバービー(とケン)なのです。私が数百万人のケイコの一人に過ぎないけどよりによってこの私というケイコであり、あなたが数百万人のジュンの一人に過ぎないけどよりによってあなたというジュンであるのと同じように。そのことに、バービーランドの住人たちも気づいてしまいます。

マーゴット・ロビー演じる主人公のバービーは、やがてバービー人形を発明した女性、ルース・ハンドラーと出逢います。ルースは言います。あなたの名前は私の娘からとったのよ、と。そうね。母親にとって、娘は世界にたった一人のバーバラ。自分は誰なのか、なんのために存在するのかという悩みに目覚めてしまったバービーにルースがかけた言葉は、人形じゃない私の眉間にも刺さってじんわり沁みました。生きるって思うようにならない、本当に大変。その、ままならない生をなんとか生き延びるために、私たちは頭の中でいろんな理屈を考えだします。生きる理由とか、あるべき世界の形とか、正しさとか、仕組みとか。本来はこの混沌とした生をなんとか安らかにまっとうするために考え出されたはずの思想やシステムが、いつしか自分を、他者を、縛って苦しめて閉じ込めて、名前を奪って、ただの数にしてしまう。「私たち」はそれぞれ80億分の1だけど「私」は1、一回きり。いつか滅びる体を持つって、そういうこと。