国際派の政策は必ず止まる
「世界で通用する国際人」を国としてどれぐらいの割合で欲しているのか、という問題だ。
このたびの教育改革によればおそらく英語を日常的に話せる人間を日本人の4割程度にしたい、というところであろう(私個人の推測数値)。
ただ実際のところ、ふつうの日本人が求めている割合は2割程度だとおもう。10人中2人ほど国際派がいればじゅうぶん、とおもっている。それはただの土俗的感情でしかないのだが、感情であるぶんとても強固である。
学生生徒すべてに英語を話す能力をつけさせようと目論むのなら、その土俗的感情と事前に折り合いをつけないといけない。
「この程度では、日本の根源は揺るがないので、海外力を入れていかなければいけない」と、荒ぶりやすい感情を事前になだめておかないと進めない。いつだって国内派の譲歩をある程度とってからでないと、国際派の仕事はできない社会なのだ。
しかしその合意は取っていない。これからもおそらく取らないだろう。そのまま国際派の政策が始まる。「若者はみな英語を話せるようになってほしい」という願望の押しつけが開始される。
だから、ある程度すすんだところで、必ず止まる。
おそらく〝英語を流暢に話すが、日本語や漢語知識が薄い日本人たち〟に対する猛烈なバッシングの形を取って世を覆うはずである。流暢英語人、つまりきちんとした国際派が人口の3割を越えたら、猛然とその動きが起こる。
それが日本だから。
だったら「言葉だけは流暢だけれど、心根の日本土俗性を強く意識できる人たち」を作ればいいのだけれど、それは和魂洋才という四字熟語が存在するくらいに古くからある考えで、まず、うまくいかない。精神と身体の分裂を高次元でまとめるという荒技が必要なわけで、ふつうの健康な人間にはとてもむずかしい。
歴史は繰り返す、何度でも
今回の英語教育問題は、わが朝の歴史に繰り返し出てくる「国際派」と「国内派」の対立の一形式にすぎない。
それはふるく物部氏と蘇我氏の対立から、源氏と平氏、攘夷派と開国派、日本陸軍と日本海軍にいたるまで、常に同じ立場でそれぞれの主張が繰り返されているお馴染みの風景である。
このたびの教育改革は〝国際派〟が主導することになった。たぶん、順番である。
国際派の心情としては、世界との交流はどんどん必要となり英語は必須なのだから、今後われわれの考えが衰退することはない、と信じている。グローバル化は進むことこそあれ、戻らないと信じているからだ。
しかし残念ながら似たようなことは、蘇我入鹿も平重盛も小栗忠順も言っていた。彼ら頭脳派は、その見識の高さを自負し「国内のことしか考えてないこの愚か者たちめ」とおもっているのだが、そこに陥穽(かんせい)がある。
土着的な、ほとんど怨念とも言っていいような日本古来の強いおもいを無視すると、暴力的な空気によって必ず潰される。歴史を見る限り、常にその繰り返しである。頭脳がいくら自分は正しいと主張しても、納得しない身体が従わなければ、どうしようもない。
だから国際派と国内派は常に対立しつつも、最終決着をつけない。
そのほうがいい。
もし決着をつけると、アジアの王たろうとして暴走するか(大東亜戦争を起こしました)、自閉するか(鎖国です)、そういう極端な国論しか抱けない。片側が論理で、片側が感情だからである。
分裂している身体と精神を合一させようと無理をすると、極端な行動に走る。いつもどっちかに偏りつつも、完全な決着をつけない。それが国を保つ工夫である。
国際派の教育改革は、どこかよきところで止まるから、それまでは見ていればいい、というのが古老的な知恵である。
国際派と土俗派がわが国の基本的な二つの党派であり、話し合いをしたことはなく、またするつもりもない。二大政党による政治など、じつは誰も望んでいない、ということでもある。
<著書紹介>
『「落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)』
堀井 憲一郎 著 740円(税別)
恋愛こそすべてという圧力、名前に対する過剰な思い入れ、死んだらおしまいと言えないムード…… どこか息苦しくないか? 落語のなかに生きる人々の姿から、近代人のおかしさを撃つ!
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堀井 憲一郎(ほりい けんいちろう)
1958年生まれ。京都市出身。コラムニスト。著書に『若者殺しの時代』『落語論』『落語の国からのぞいてみれば』『江戸の気分』『いつだって大変な時代』(以上、講談社現代新書)、『かつて誰も調べなかった100の謎』(文藝春秋)、『東京ディズニーリゾート便利帖』(新潮社)、『ねじれの国、日本』 (新潮新書)、『いますぐ書け、の文章法』(ちくま新書)などがある。
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