ユーミンのライブ、聖子ちゃんのコンサート、『ボヘミアン・ラプソディ』への熱狂に、自身の青春の思い出とのシナジー効果を見た酒井順子さん。今回は、中年世代の「懐かしみ欲求」を刺激するSNSの功罪について分析します。

 


「懐かしみたい欲求」と中年世代のSNS


 「懐かしむ」という行為は、前述のように今や産業の一部になっているわけですが、私世代が中年になると、懐かしみ活動に拍車をかける仕組みも、整ってきました。すなわちそれは、ネット社会の到来。

 あらゆる情報に、簡単に接触させてくれるのが、ネットの世界。懐メロを検索するのも簡単で、「1987年に海に行く途中に車で聴いたあの曲」も、すぐに見つけ出して聴くことができるようになりました。青春時代に好きだった歌手や俳優の現在も素早く検索することができ、
「へぇ、今は主婦なんだ……」
 などと思ってみたり。

 検索対象となるのは、芸能人ばかりではありません。自分がかつて付き合っていた人やら好きだった人やら、素人さんについても検索すれば、今の姿がわかるようになってきたではありませんか。

 SNSの時代ともなると、その手の人達と「つながる」ことも、できるようになってきました。SNSが流行り始めた頃、私は40代前半。今一つわけがわかっていなかったけれどフェイスブックというものに登録してみたのは、45歳の頃でした。それはちょうど、人の「懐かしみたい欲求」が急激に上昇して行くお年頃です。子を持つ人であれば、子育てが一段落して、自分の時間を持つことができるようになってきたり。また仕事を持つ人であれば、長年続けてきた仕事に飽きてきたり。そんな時にふと、「昔」が桃源郷のように見える瞬間がやってくるのです。

 そんな中年達にとってSNSは、渡りに船的な道具となりました。昔の仲間達と次々につながり、
「久しぶりに集まりました!」
 と、楽しげな画像をアップするという現象がそこここで。さらにそこからお付き合いが発展し、焼けぼっくいに点火してみたり、はたまた新たに火ダネを見つけだしたりした人が、どれほどいたことか。

 もちろん私も、例外ではありません。SNS上で、昔の知り合いと次々につながっていくと、青春再来的なわくわく感を覚えたもの。リユニオン的な集まりも、頻繁に開かれるようになりました。

 最初のうちは、その手の会に楽しく参加していた私。若い頃はひょろひょろしていた男子達も立派なおじさんになり、頼もしげに見えたりして、「みんな、立派な大人になったのね」と、ときめいたりもしたのです。

 しかし最初の感動は、次第に薄れていきます。男子達が太っていようがハゲていようがすでに驚くことはなかったのですが、しかし若い頃はモテモテの遊び人だった人が、「元遊び人」に共通する爛(ただ)れたムードにまみれていたりすると、悲しい気持ちになったもの。

 そういえばユーミン「SURF&SNOW」に入っている「灼けたアイドル」は、かつて海辺の店でアイドルのように眩しい存在だった男性が、今は下町でビラを配っているという噂……という歌でした。時間というさざ波によって、若い頃は共に生きていた仲間達が別々の島に運ばれてしまう、という哀愁がそこで歌われたわけです。

 が、若い頃から20年、30年と経つ間、我々に寄せてきたのは、さざ波ばかりではありません。荒波、大波をかぶったりくぐり抜けたりしたことによって、違う島どころではなく、違う大陸に行ってしまった、と思わせる人も。

 昔と変わっていない人も、もちろんいます。
若い頃に面白くなかった男子が、大人になってもその面白くなさを堅持、どころか、さらにその個性に磨きをかけていたり。セクハラ芸が得意だった人も、その芸風を変えていなかったり。久しぶりの再会時には懐かしくて色々な話が弾んだものの、2回目には話すネタも尽き、「ま、こんなものだよね」という感じに。長年会わずにいたのにはそれなりの理由があったのだ、ということがわかるのでした。

 私がこのように感じるということは、向こうも同じことを感じていたということでしょう。フェイスブックが広まった頃は盛んに行われたリユニオン活動も、かくして次第に沈静化していったのです。


若者の神から「懐かしみレジャー」を引き受ける神へ


 こうしてみますと、ユーミンや聖子ちゃん、そして「ボヘミアン・ラプソディ」等の、プロフェッショナルがもたらしてくれる「懐かしさ」は、高度に精製された感情であることがわかります。ユーミンや聖子ちゃんは、ファン達が青春を反芻するためにライブに来ていることを熟知しているからこそ、その期待を裏切らないように、あらゆる手を尽くしています。体型も維持しなくてはならないし、ボイストレーニングも欠かせないことでしょう。セットや衣装も、ファンに夢と生きる力をもたらすために考え抜かれたもの。

 彼女達のライブを見て泣けてくるのは、ユーミンの恰好良さや聖子ちゃんの可愛らしさの裏に、どれほどの努力や我慢があるかが感じられるから、でもあるのでしょう。食べたいものを食べ、サボりたい時にサボっていたら、あのようになることはできない。生きるというのは、それぞれ大変なことなのだ。……といったことをも感じさせ、さらに目頭は熱くなる。

 人をうっとりさせるような「懐かしさ」は、そう簡単に作り出せるものではないのです。SNSでつながった昔の友達に会うのも、お手軽に懐かしさが得られる行為ではあるけれど、お手軽であるが故に、がっかりしたり、させたりすることがしばしば。対してユーミンや聖子ちゃんのみならず、「懐かしがらせる」ということを産業として捉えている人々は、我々顧客を責任を持って懐かしがらせてくれるのです(たまにジュリー@さいたまスーパーアリーナ、のようなことはあるけれど)。

 また、旧友と旧交を温める場合は、懐かしさと懐かしさの等価交換という面があって、こちらが老け込んでいたりすると「すいませんねぇ」という気分になるもの。しかしコンサートや映画を観に行くことは経済活動ですので、対価を支払いさえすれば、こちらがどれほど老け込んでいようと棚にあげて無責任に懐かしむことができるのも、良いところです。

 ユーミン「TIME MACHINE TOUR」が終わって会場から出てきた人は皆、「イッちゃった後」の顔をしていました。最後の最後、「やさしさに包まれたなら」を皆で合唱した時に、泣かなかった人はいまい。ユーミンはアンコールでツアーTシャツを着て物販の宣伝をするようなこともなく、最後も恰好いいマリンルック姿。

「こんなツアーをすると、もう引退しちゃうの? って思う人もいるかもしれないけど、私はまだまだ歌い続けていきますよーっ!」
 と言うユーミンに、どれほどの人が奮い立ったことか。

 かつて若者達の「神」だった者は、その世代をずっと、引っ張り続ける責任を担っている。……そんな覚悟を感じさせた、ユーミンの姿。ちょっと他人に親切にしたくらいで「神対応」などとされ、粗製乱造されている感のある最近の神々とは別種の自信が、そこからは漂っていたのでした。
 

Photo by Jonathan Christiansen on Unsplash