「リスクマネジメント」という言葉への違和感

 

松浦 危機ということに関連して、クリティカルポイント=臨界点というものがありますよね。ある点を超えると別のものにがらりと変わってしまうポイント、危機的な点ということだけど、そこにはデンジャーといった言葉もある。また、人間の精神の深層にまで届くようなクライシスという概念がある一方で、リスクという概念もあります。原発や地球温暖化のリスクなど、どれも世界的に危急の課題です。多和田さんの近未来の思考実験的な小説は、こうしたリスクの問題も扱いつつ、精神のクライシスの問題もそこに重ね合わせて展開しようとなさっているという印象があります。

多和田 私は小説を書くときには、自分のことにあまり関心がないんですね。いわば自分の外のものを書いているという感覚がある。そのうえ最近は、未来を書くことがすごく楽しいんですね。本当は未来を書くことなんてできないんだけど、佐伯さんがおっしゃっていたように、未来を書くという形で過去のことを書き始めたのかもしれません。

いま、リスクマネジメントということが盛んに言われていますが、私は非常に違和感をもっています。リスクやクライシスとは果たしてマネジメントできるものなのか。根源的なものだから、できるわけがないと思うんです。


危機の本当の恐ろしさは、あとからやってくる


佐伯 結局のところ、小説とは生きること、死ぬことの危機を書いてきたようなところがありますよね。僕は私小説的なものを書いてきて、自分が自分を把握することの難しさをよく感じています。そういう経験から考えるに、危機っていうのは意外なことに、その当座ではそんなに危機ではないものです。危機が本当に怖いのはあとになってから。「あんなところを渡ってきたのか」とあとでゾッとするような感覚です。古井さんが過去と現在についてお話されていましたが、今、振り返ってみる方がもっと怖いかもしれないですよね。

 

松浦 古井さんの作品でも、子供の頃に空襲を受けた体験とか、ずいぶん時間を隔てて出てきていますよね。また、震災のように日々の暮らしの中に起こるカタストロフ的なものに実に敏感に反応しながら小説を書いて来られたと思うんですけど、思えば、間もなく終わろうとしている平成の30年間って、東日本大震災を始めとしてさまざまなことが起きていたにもかかわらず、特にこの平成30年は奇妙にのっぺらぼうで平坦な感じがしてならないのです。70年に渡って、戦争を知らずに時代が続いてきているということもあるのかもしれませんが。

『人外』松浦寿輝
神か、けだものか。アラカシの枝の股から滲みだし、四足獣のかたちをとった「それ」は、予知と記憶のあいだで引き裂かれながら、荒廃した世界の風景を横切ってゆく。死体を満載した列車、空虚な哄笑があふれるカジノ、書き割りのような街、ひとけのない病院、廃墟化した遊園地。ゆくてに待ち受けるのは、いったい何か?  世界のへりをめぐるよるべない魂の旅を描く傑作小説。

古井 佐伯さんの『山海記』にもありますが、日本では古来、実に頻繁に震災が起こっています。震災だけでなく、大洪水や干ばつによる凶作で人がばたばたと倒れていった。こうした災害に遭った人にはもちろん自分の体験として残ります。それは子や孫に伝えられて、だいたい30年間、3代くらいはその恐怖感が遺伝する。先祖たちはそうやって生きてきた。ところが、1970〜80年代の20年間だけは珍しく大災害が途絶えていた。それが平成に入って、人の心に何か影響しているんじゃないかと感じるんです。常に天災などに恐れながら生きてきた祖先たちの心がいっとき途絶えたんじゃないかと。

『山海記』佐伯一麦
東北の震災後、水辺の災害の痕跡を辿る旅を続ける彼は、締めくくりに3・11と同じ年に土砂災害に襲われた紀伊半島に向かう。道を行き、地誌を見つめて紡ぐ、入魂の長編小説。

そこに東日本大震災の大津波が来た。あの時の体験がこの国全体に広がるのはこれからじゃないかと思うんですよ。佐伯さんがおっしゃったように、危険な吊橋をささっと歩いて渡り、あとで足がすくむようなことがこれからありうるんじゃないか。あとからの危機というものは、実際の危機に劣らず大きく、そして侵食力があるのではないかと思うのです。

松浦 古井さんの作品に『楽天記』というものがありますが、楽天という言葉自体、幾重にも屈折したアイロニーが畳み込まれたように感じます。一種の楽天主義というものが日本人の心にあって、吊橋も道路を歩いているような感覚でスタスタ歩いてしまっているところがあるのかもしれないですね。

多和田さんの『地球にちりばめられて』や『献灯使』も、破局のあとの世界を描いているわけだけど、多和田さんの想像力は吊橋の先にあるところまで行っていて、そこから振り返ってリアリズムを持って描いているような気がしたんです。ただ、そうした世界を描きながらも、悲壮感はおろか、案外明るい感じで描いていらっしゃる。

多和田 危機が非常に大きくなってくると、人間のドラマみたいな枠を超えちゃうんですよね。

松浦 多和田さんの作品は暗い状況を描いているはずなのに、人を元気づけるような、非常に生命力にあふれているところがあります。

古井 人類には常に破滅の危機があり、それを乗り越えてきた。我々はそれらの危機をしのいできた人間の末裔でしょう? もうちょっと厳しいことを例に挙げると、飢饉が起こって生きるか死ぬかという人間たちが迷い出た時、彼らは比較的食料が残っている村落に行き、そこにある家の戸を叩く。だけど、そこの村人は戸を閉ざす。なぜなら、戸を開けて食料をあげると共倒れになるからです。そうやって死にそうになった人を見下ろしてきた。我々はその末裔なんですよ。現代人は虚弱だっていうけど、実はしぶといんですよ。ただ、そういう後ろ暗い過去を持っているということを意識したほうが、先に向かって歩んでいく力がつくんじゃないのかな。そんなふうに感じられるのです。

 

1946年に刊行された『群像』は、戦後から日本文学をリードしてきた月刊文芸誌。この日は30年分の本誌と目次が展示されました。トークショー観覧に全国各地から集まった純文学ファンの方々は、手に取ったり懐かしんだり、文学の夕べを満喫されていました。


撮影/森清(講談社)
取材・文/吉川明子
構成/川端里恵
 
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