なんか、本当に胸がつぶれるようなニュース。滋賀県でお散歩中の保育園児に自動車が突っ込んだあの事件。私の家の近所にも保育園があり、昼間歩いているとそのお散歩に遭遇することがあります。幼稚園の先生が三人、一人は四角いお散歩用の大きな乳母車のようなものに何人かの子供を乗せて、残りの二人はそれぞれの両手に子供たちの手をしっかりとつないで、なんとなくおぼつかない足取りながらも、子供たちはキャッキャと本当に楽しそうで。あんな小さい子供たちに……と思うだけで、胸がぐぐっと息苦しくなり、頭は血が上ったように熱くなり、もうどうしていいかわかりません。
保育園の園長先生が号泣する記者会見は、ほんとうにひどかった。このタイミングで被害者である保育園が会見をしなくても……という気がしましたが、でも結果的にはやってよかったなとも。というのは会見を見て、「ここできちんと説明していなかったら“保育園にも落ち度があった”と書きかねない媒体があったかも」と思ったからです。途中の(やや糾弾するかのような)事実確認の質問も確かに聞いていて気分がいいものではありませんでしたが、私が本当に最悪だなと思ったのは、最後に某テレビ局の男性記者がした「この事件をどう認識していますか」という質問です。
保育園側は何を聞かれているかわからず、なかばポカンとしながら聞き返すと、その記者「どのような反省を…どのような情報で…どのような認識を…」としどろもどろに。おそらくそう聞けば、期待していた答えがすぐに返ってくると思っていたんじゃないでしょうか――つまり、ある種の謝罪が。
世の中で何かマズイことが起きた時、誰かが謝罪するのは当然あってしかるべきですが、最近はその筋道がなんかおかしい。この事件であれば謝罪するのは当然、事故を起こした人。でも会見には「保育園にも落ち度があったのでは」という猜疑心が渦巻き、たとえ裏付けが得られなかったとしても、「お騒がせして申し訳ありませんでした」という言葉が出るのが普通でしょ、という空気が充満していた気がします。
私はかねてからこの「お騒がせして申し訳ありません」っていうのに、なーんかモヤモヤした気持ちを覚えていました。いやわかりますよ、何にしろ「お騒がせ」に対する丁重な対応だってことは。でも騒ぎを起こした張本人じゃないならば、「申し訳ありません」なしの「お騒がせしました」というご挨拶でいいんじゃないのかなあ。言葉って不思議なもので、別に大して怒ってなかった相手から謝られると、それを追いかけるように怒りが沸き起こるってことがあります。最近は「お騒がせ」と「申し訳ありません」がワンセットみたいに使われすぎて、社会全体が「お騒がせ」しといて「謝んねーのかよ!」みたいなってる気すらします。
さらに言えば、今回のような「お騒がせ」された側――被害者にたいして、「お騒がせ」の一部を担ったものであるかのように、「申し訳ありません」を求める人もいる。心無いファンに襲われたNGTの山口真帆さんが、被害者なのに謝罪したのもしかり。
それは、時に事件の理不尽に怒る人や落ち着かない気持ちを晴らしたい人、時に事件を収拾したい人が、求める生贄のようなものに思えます。でもそもそもそういう人たちは、誰かに謝ってもらうほどには「お騒がせ」なんてされていないのでは?
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