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東大入学式の祝辞からこっち、かるーく起きています、上野千鶴子ブーム。#metooの流れがついにガチになりはじめたということでしょうか。ご存知の方も多いでしょうが、上野さんは日本の女性学のパイオニアで、私は『女ぎらい 日本のミソジニー』という著書で初めてその世界に触れました。こういう文言があります。

「家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を侮蔑すべく育てあげるシステムのことである」

その煽情的な表現と、刃のようにズバッと核心を突く真実に、いろんな意味で、わーお!とのけ反りました。日本人のこの世代に、こんな人がいたとは、と。そんなわけで、私はあの祝辞がいろいろ物議をかもしていることに、ちょっとびっくりしたものです。上野さんの発言としては、東大の入学式という場をちゃんとわきまえた、恐ろしく穏当なものだったからです。

まあ内容にはいろいろな意見があるでしょうし、みなさん書いてらっしゃるので、それは他の方にお任せするとして。私が個人的に「なんで?」と思ったのは、この祝辞を「入学式みたいなお祝いの場でいうこと?なんでお祝いムードに水を差すの?」という人が、意外と多いことです。

「東大」というブランドが生む入学式の特別な意味

これには、なんかいろいろと、へーと思いました。私自身は、適当と書いたら漢字に申し訳ないほどテキトーな大学生だったので、そもそも入学式の祝辞なんてまったくもって聞いておらず、内容どころか一言も、誰がしたかも覚えていません。とはいえ万々が一聞いていて、その内容が説教だったとしても、「説教してらあ」くらいでなんとも思わなかったんじゃないかしら。どんな組織でもその一員になるときには、大人たちが「その名に恥じぬよう気を引き締めて」くらいのライトな説教かましてくるのはよくあることです。祝辞なのに祝ってもらえないなんて……とか思わない気がするなあ。いや絶対思わない。

でも東大生とその両親がそこに反応する気持ちは、わからないでもありません。だって、きっと東大に入るために、東大生もその親も、ものすごーく頑張ってきたに違いないから。入学式は「大学生活スタートの日」っていうより、むしろ「東大生になった日」「努力が報われた日」なわけですから、努力した分だけねぎらわれたい。みんなに「おめでとう!ついにやったね!」って言われたい。そりゃそうでしょう東大なら……と、この言い分に世の中がつい納得しちゃうところに、東大のブランドパワーがあるような気がします。

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何しろ東大は日本の最高学府ですから、日本人の中には「東大」→「すごい」「頭いい」「エリート」みたいな回路が出来上がっちゃっていたりします。面白いのは、私のようにそうした回路のない人間すらも、東大って融通効かないやつばっかり、とか、東大って上から目線、とか、東大って変人だらけ、とか、東大って自分のこと特別と思ってるやつばっかり、といった、東大に限らない、慶応とか早稲田とか上智とか仏文科出身(←)とかもそういうとこあるよね!というようなことも、ことさら東大だけに反応しちゃったりする。

それはあらゆるビジネスにおいて「東大」という枕詞があまりに多いことからもうかがえます。ええと、ためしにですね、アマゾンで「東大」を検索にかけてみると、「現役東大生が書いた」とか「東大に入れた母親が」とか「東大の教室で」とか「東大ナゾトレ」とか「東大のメソッド」とか、そりゃもううじゃうじゃ出てくる。ちなみに「2019年度世界大学ランキング日本版」で東大を抜き、1位になった京大で検索すると、いわゆる赤本のほかに出てくるのは「京大の筋肉」「京大変人講座」「京大的アホがなぜ必要か」の3つくらい(これはこれですごいことw)。

多くの日本人は東大に対して、「東大?ふーん、それって食べ物?」くらいの無関心を貫くことができず、その看板があまりにデカく盤石すぎるがゆえに、本質を吟味するまでに至りません。もちろんそうした世間の反応が当の東大生に作用しないはずがなく、東大生、東大卒という経験を積めば積むほど、彼らの中には良きにつけ悪しきにつけ「東大生は特別」という強固な地盤ができあがってしまいます。


さて上野さんの祝辞――「入学式みたいなお祝いの場でいうこと?」かどうか――に戻れば、だからこそ私は入学式に言うべきことだと思うわけです。だって入学式は、「東大生は特別」が始まる第一歩なのですから。「東大生だから」すべて許される万能感や、「東大生なのに」モテないコンプレックスが、始まる瞬間だからです。入学したての人の心に刺さるわけないとか、素直に受け入れられないとか、そんなのはどうでもよろしい。意味わかんないうちから「女の子はかわいいのが一番」「女の幸せは結婚」って言われ続けて、大人になってからもその呪縛から逃れられない人がいることを思えば、むしろわからない段階で言い始め、なんらかのインパクト残すことのほうが大事。

さて最後に明確にしておきたいのは、この祝辞で「お祝いムードに水を差したのは誰か」。このネタを扱うテレビを見ていて「は?」と思うのは、さも「上野さんが水を差した張本人」かのように言っていることです。前述のとおり、上野さんを知る人なら誰もが、上野さんが口を開けば穏便に済まないことを知っています。そんな人物に祝辞を依頼したのは誰か――もちろん東大。大学側は内容だって間違いなく事前に把握しています。

上野さんにそれを言わしめた東大の危機感の根っこには、昨年の財務省・福田前次官の最低最悪のセクハラがあり、それが氷山の一角であることを示す2016年の東大生集団強制わいせつ事件があり、それをもとに書かれた小説『彼女は頭が悪いから』があります。
(ちなみに昨年は東大生以外にも多くの強制わいせつ事件がありましたが、こうした祝辞を行ったのは東大だけ。大学側がこうした「特別性」を示したことは、東大の矜持とも思えます)

てか、日本の世の中は「本当に信頼できるのは、自分のためを思い、あえて厳しいことを言ってくれる人」みたいな感動話が大好き(だってテレビのバラエティとか年中そんなことやってるし)だと思っていたのですが、実際に言われるのはイヤってことかしら。だとするなら。日本社会ってずいぶん安っぽく、ずいぶん甘っちょろくないですか。