美智子さまの両親の仲を雙葉が取り持った
正田富美子さんは、明治42年(1909)、中国の上海で生まれた。
旧姓は副島(そえじま)。佐賀の士族の出身である。富美子さんが生まれたとき、父の綱雄さんは、当時の三大綿花商社の一つ「江商」の上海支社長であった。
6人きょうだいの長女に生まれた富美子さんは、16年間を上海で過ごし、大正14年(1925)に家族とともに帰国。そして、東京・四谷の雙葉高等女学校に進み、首席で卒業した。
「頭のよい花嫁候補を紹介してほしい」
正田英三郎さんの母・きぬさんが、そんな相談を雙葉学園に持ち掛けたのは、それから間もなくのことだった。そして、学校側が紹介したのが、富美子さんだった。
きぬさんは大変熱心な母親で、英三郎さんの兄弟からはそうそうたる学者が出ている。
父の英三郎さんは実業家だが、兄の健次郎さんは理学博士で元大阪大学学長、弟の篤五郎さんも理学博士で元東京大学教授、妹の勅子(ときこ)さんの夫、水島三一さんも同じく理学博士で東京大学名誉教授。正田家はそんな学者一族であった。
学者の家庭の雰囲気は、美智子さまには幼いころから馴染み深いものだったのだ。
富美子さんは、そんなきぬさんのお眼鏡にかなった嫁だったのである。
昭和4年(1929)春、英三郎さんと富美子さんは結婚した。そして、翌年から一年間、夫妻はドイツで新婚生活を送った。
帰国後の昭和9年(1934)10月20日、東京・本郷の東大附属病院で、長女の美智子さんを生むのである。富美子さんは、美智子さんにドイツ滞在中に学んだドイツ式の育児法を行った。
富美子さんは、ともに92歳の長寿をまっとうした舅姑に仕え、そして妻、母として、正田家のかけがえのない存在だった。
美智子さまは、そんな富美子さんの娘である。美智子さまの聡明さ、優しい心は富美子さんゆずりといってよい。
娘は母の作品である――娘の人格形成には、母の生き方やの考え方がそのまま投影される、と私は考えている。その上に、学校で学ぶ教育が影響するのだ。5人の雙葉学園出身者たちをみていると、その小さなころに受けた学校教育が、いかに将来に大きく影響していくかがみてとれる。
今回の代替わりに際して、渡邉みどり氏は、美智子さまと雅子さまの交流、それぞれの苦悩、家族愛などを書き綴った『美智子さまから雅子さまへ』3部作をまとめた。POD(ペーパーバック版)と電子書籍での発売。4月22日~5月21日まで、この三部作のペーパーバック版を三省堂書店神保町本店にて店頭販売します。
三部作Ⅰ 「美智子さまの想いが雅子さまへ 雅子妃誕生」
三部作Ⅱ 「美智子さまもご祝福 愛子さま誕生」
三部作Ⅲ 「美智子さまもお支えに 雅子さま ご成婚十年の苦悩」
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