「あいちトリエンナーレ」の文化庁の補助金が許可されたにもかかわらず、もうイベントやっちゃっている最中に全額不交付になったこと。それは「レストランの予約時間の30分前にキャンセルしてきた外国人観光客」とか「メールで依頼されてスケジュール抑えてリサーチまでしたのに、寸前に“今回は別の人にお願いすることになりました”とメール1本で仕事を断ってた某制作プロダクション」(個人の体験)とかみたいなもので、これを理不尽と感じない方がおかしいと私は思います。

 
 


「審査の議事録はございません」の意味すること


というわけで
「愛知 国際芸術祭への補助金 不交付の方針 文化庁」(NHK)

「あいちトリエンナーレ補助金「全額」不交付は、踏み込み過ぎでは?」(アゴラ)

「あいちトリエンナーレへの補助金撤回した文化庁の“屁理屈”」(日刊ゲンダイ)

「『検閲と言われても仕方ない』あいちトリエンナーレへの補助金不交付に批判殺到」(バズフィードニュース)

など、「表現の不自由展」で「表現されていた内容」を不快に思っていた人たちも、「これはちょっと行き過ぎなのでは。異常なのでは」と疑問を投げかけています。その「行き過ぎ」と「異常」の実態が何なのか、如実に見せてくれたのが、共産党の議員さんが「不交付の理由を問い合わせ、文化庁からもらった返答」のツイートです。
 

 

「あいちトリエンナーレへの補助金交付を決定した審査の議事録はございません」

最も大事なところをわかりやすいように、今度は特別にボールド体でもう一度。

「補助金不交付を決定した審査の議事録はございません

「審査について議論したけど議事録はとってない」という意味だとしたら、「森友問題で議事録が残っていて大変だったから、今回はとらずにブラックボックスにしとこう」ってことかな~? それとも「不交付は審議なしで決めたんで」ってことかな~!?

どちらであれ、これは「まともな議論なく決められた」ということです。「不交付は“表現の自由”とは別の問題、手続きや運営の不備ですよ」みたいな体ですが、「上」からの鶴の一声で決まっているなら、「上」が「あいトリが気に入らない」以外の理由はありません。9月25日に「表現の不自由展」再開が発表された翌日に、この決定がなされているわけで、わかりやすすぎます。韓国のホワイト国外しの時に「徴用工問題の報復措置ではありません」と言っていたのが、なんだかデジャブのようです。その是非はさておき、国際政治の場面でそういう手段をとるならまだしも、自国の国民に「気に入らないから、圧力かけとけ」てなことをするなんて。
 

国民の総意、あるいは多数決が正義か


そんなわけで「いや、検閲ではないですよ」という体の補助金の不交付は、「表現の自由」の問題にブーメランしてゆくわけですが、この問題がまたややこしい。私個人としては「表現の自由」の側、個人として言いたいことがいろいろあるのはやまやまですが、今日のところは最もメジャーな切り口にフォーカスしたいと思います。つまり「税金を使ってやることなのか」。

さてあいちトリエンナーレの「表現の自由」展示が中止に追い込まれた直接の原因は「ガソリンまいて火をつける」という脅迫ファックスが届いたことです。でもその前に1日100件単位で抗議電話がかかってきた、それもなぜか一瞬だけ公開されたその音源によれば、本当に聞くに堪えない罵倒ですから、運営本部を疲弊させるには十分の数。でもたとえこの1000件が「国の税金でやることか」と怒り狂ったとして、議論なしに国の補助金を出さないと決めるだけの理由になるでしょうか。

ああ、そうですね、もちろん抗議電話した人以外にも「税金使うのはちょっと」と思う人もいるでしょう。一方、ネット上でこの決定はおかしいという人も抗議電話みたいに、賛成だからやれ!って電話しなきゃダメなのかな~?ていうか、私からしたら、セレブ大好きの首相が「桜を見る会」に6000万円近く使うなら、国際的な文化イベントに7400万円(それも3年に一回だから、年割で2400万)のほうがずっといいんですけど。何が言いたいかというと、「これに税金に使うのは国民の総意!」なんてものはありえません。そんな中で、どうやって税金の使い道を決めるのか。だから「議論」が必要なんです。

日本では「民主主義の基本は多数決」みたいにいう人が多いけれど、それは違う。民主主義の基本は議論であり、それにより多数派だけでなく、そこからこぼれ落ちた人も救い上げる方法を考えることです。「税金を使う・使わない」の議論で言えば、多数派以外の国民全員が何らかの形で必ず税金を払わされているわけだから、たとえ少数派であっても切り捨てられるべきではありません。議論なしで決められるのは独裁国家だけです。

特に文化において、その内容いかんで「税金を使う・使わない」を決めることが間違っているのは、それ自体が「少数派の切り捨て」であり、「多様な考え方」を否定することだからです。もちろん「この案件にはお金は出せない」というものがあることは否定しません。だからこそ事前の審査である程度のふるいをかけているわけで、これを通ったものが事後に議論なくその決定を覆されるなんて、理不尽どころか、横暴、身勝手でしかない。

さて最後に「表現の不自由展」が中止に追い込まれた経緯について、「あいトリ」の芸術監督の津田大介さんご自身が詳細に語っている記事のリンクを貼っておきます。この記事、非常に長いので、中止までの流れを知りたい方は「安全で円滑な管理運営をする現場監督として自ら動かざるを得なかった」という見出しからお読みください。記事の中で津田さんは、このいわゆる「電凸」には、ある種の組織的なものーー特定の悪の組織が…!という漫画チックな陰謀論ではなく、特定の人物(具体的な政治家の名前も)による扇動に、不特定の人たちが応じたという類のものーーと津田さんは見ているようです。構造としては、昨年あたりにはやっていた弁護士への不当な懲戒請求に似たもので、一瞬だけなぜか公開された「あいトリ」への抗議電話から分かったその激しい罵倒ぶりでもわかりますが、これ要するに事の重大さを理解していない人たちによる、ある種のストレス解消にも似た「ヘイト」そのものなんです。

ちなみに不当請求事件に関しては、弁護士側が損害賠償請求の訴訟を起こしたことで収束に向かいました。ちなみに「あいトリ」のガソリン脅迫で逮捕された人物は、逮捕後に「本当にやる気はなかった」と言っています。もちろん実際に何か起こってからでは大変ですから、展示中止の判断に間違いはなかった。でも電凸も含めて徹底的に捜査し処罰して、「ヘイト=犯罪」ということを、広く一般の常識にしなければ、それこそオリンピックなんてやっていられません。
 

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