酒井順子さんによる書き下ろしエッセイ。友達からの「実は孫が生まれた」という告白から、そういうステージになったことへ想いを馳せた酒井さん。孫がいる、いないという状況は、女性たちのあらたな分断を生むのでしょうか。

 


母親が『祖母』になることができた


私はジャネット・ジャクソンと同い年なのですが、彼女は50代にして出産しています。今や相当お金と根性を出せば、50代でも子供を産むことができる時代であるわけですが、普通の流れでいけば、「子を持つ年代」ではなく「孫を持つ年代」なのです。

思い返せば私の母親が50代の頃も、周囲の友達に孫が生まれるのを見て、羨ましそうにしていたものでしたっけ。母親世代の女性達は、20代前半で結婚・出産をしている人が多いですから、子供が30歳になっても、まだ50代前半だったのです。

しかし我が家は、兄は結婚していてもまだ子供はおらず、私は独身。兄のところに遅い子供が生まれたのは、母が六十代後半となってからでした。

その時、私は「母親が『祖母』になることができた」という事実に、ほっとしたことを覚えています。その世代の女性としてはごく普通に、専業主婦として生きた母。「祖母になる」ということは、人生における一つの到達点であったかと思うのですが、母はなかなか祖母になることができず、専業主婦として欠落感を抱えていたようです。「すいませんねぇ」とは思ったものの、母の欠落感を埋めるために子を産むこともできずにいたところ、兄が「孫の顔を見せる」という偉業を達成。あれほど「お兄ちゃん、でかした」と思ったことはありませんでした。


孫アリ族と孫ナシ族の分断


気がつけば今、孫は贅沢品になっています。まず人は、結婚できるとは限らないし、結婚しても子供ができるとも限らない。

子供に恵まれても、確実に孫を抱っこできるかといえば、さにあらず。子は結婚しなかったり、しても戻ってきたり、引きこもりになったり、ニートになったりと、色々な人生を歩むようになってきました。私の周囲を見ても、きょうだい全員が結婚して子を持っている、というケースは非常にレア。

母の周辺にも、孫ナシ族はかなり存在していましたが、次第に孫アリ族と孫ナシ族の間には、分断が生じてきたのだそう。孫アリ族は孫と遊んだり、親に代わって孫の面倒を見たりと忙しくなってくる上に、
「孫がいる人って、孫の話ばっかりするから、面白くないのよね」
という事情も、あったようです。そのつもりはなくとも、孫アリ族達の孫アピールは、孫ナシ族の欠落感を刺激してしまったのでしょう。

その昔、友人達の子供がまだ小さく、子育てにかかりきりの頃は、子アリ族と子ナシ族の分断が見られたものでした。子供達が大きくなってから友人関係が復活してきたのですが、それは束の間の平和な時間であって、もしや今後は、孫アリ族と孫ナシ族の間が再び、疎遠になってくるのか……?

これからどんどん、子アリの友人には孫が生まれてくるものかと思います。保育園のお迎えを手伝わなくてはならないとか、七五三の費用を出してあげなくてはならなくて大変だとか、その手の話を生き生きと語る友を見て、子ナシ族から孫ナシ族となった私は、ジェラスを感じることになるのか。

年をとるにつれ、私は赤ちゃんがやけに可愛らしく思えるようになってきました。心が洗われるような澄んだ瞳を見るとこちらも思わず笑顔になり、赤ちゃんにニッコリなどされようものなら、不覚にも目頭が熱くなる時も。

昔は、このようなことはありませんでした。私はいわゆる「子供好き」ではなかったので、若かった頃は赤ちゃんにも無関心。自分に若さが有り余っていたので、赤子の若さ、と言うよりは新しさに吸い寄せられることがなかったのでしょう。

しかし自身の生命力が薄れてくると、赤ちゃんが眩しく発光して見えるようになります。赤ちゃんはまさにエネルギーの玉であり、「玉のような赤子」とは言い得て妙。電車の中などに赤ちゃんがいると、自然に視線はロックオンされるのです。


孫欲を充足させるには


昔は「なんでお年寄りって、電車の中とかで赤ちゃんに話しかけるんだろう?」と思っていたものです。が、この調子でいったならば、あと10年くらいしたら、
「あーら可愛いわねぇ、何ヵ月?」
などと、自分も話しかけているような気がしてなりません。

「孫は子供より可愛い」としばしば言われますが、それはだからこそ、なのでしょう。赤子の母親は、子供を産むことができるわけですから、まだ若い(ジャネット・ジャクソン的な例は除く)。もちろん子供は可愛いにしても、目の前の命を育てることに必死にならざるを得ないところがあります。

対して祖母の場合は、自身の生命力が枯れ気味になってきているところに、「育てなくては」という義務感なしに赤子を抱くわけですから、純粋に可愛さのみを感じることができる。生命というものに対する畏敬の念も若い頃よりは深まりますし、自分から流れ出た命が繋がっていくことに対する喜びもまた、ひとしおであるに違いない。

……などと考えるわけですが、しかしいくら考えてみたとて、子ナシ族に孫は生まれないのです。ジャネット・ジャクソンは80代くらいになったら初孫を抱くことができるかもしれませんが、かつて卵子提供をしていたせいで、いつの間にかどこかで生まれていた子供が登場(かつてNHKで放送していたアメリカドラマ「アリー・マイラブ」にそのような場面があった)しない限りは誕生しないのが、孫というもの。

では子ナシ族としては、孫欲を充足させるためにどうしたらいいのかと考えてみますと、「エア孫」の方面に走ることになるのでしょう。

若い知り合いの女性が赤ちゃんを出産すると、
「孫みたいだわ!」
などと昨今は冗談半分で言っていたのですが、それはもはや冗談にはなりません。その手の赤ちゃんは本当に孫のように可愛い「エア孫」であって、やたらと物などを買ってあげたくなるのです。少子化時代の今、赤ちゃん達は実の親や祖父母からのみならず、血縁の全くない中高年男女からの愛情をも受け止めなくてはならなくなってきました。

年をとって愛玩欲求は増加しているけれど、愛玩対象は減少している、今。そのギャップを埋めるためには、エア孫を愛玩させてもらったり、ペットを飼ったりと、自分なりの工夫が必要となってくることでしょう。いつか、「喋る人形」とかにも手を出すようになってくるのか……。

このように、友達からの「実は孫が生まれた」という告白は、私の意識をどこかで変えたようです。私は、自分が既に「高齢者の入り口に立っている」ということを、他人の初孫によって、ようやく自覚したのです。

確かに50代になってからというもの、自分のことを「中年」と言っていいのかという迷いは、生じていました。中年という言葉は、何となく40代までを指すような気がしていたけれど、「ま、いいか」と中年を自称してもいた。

しかし、孫がいてもおかしくない年頃だという自覚ができてからは、
「私ら中年はさー」
などと言うと若ぶっているようで、
「私ら中高年はさー」
と、言い換えるようになってきたのです。

「中高年」は、綾小路きみまろさんが広めた言葉です。中年〜高年の人々という意かと思われ、40代の頃は「中高年」の範疇に入れられるのが嫌だったものですが、自分も初孫世代だと思ったら、その中に飛び込む気概が湧いてきました。寿命がどれほど延伸しようと、50代はやはり初老に違いないのですから。

自分に孫はいないし、これからも孫ができることもないけれど、これからはおばあちゃん的な自覚を持って生きる必要があるのではないか。……と、“初孫ショック”以降、私は思っています。「いつまでも若くいるべき」という洗脳を受けて生きてきた我々世代ではありますが、この先、いつか電車の中で初めて席を譲られた時、
「最近、ちょっと太っちゃったから、妊婦だって思われたのかしら?」
ではなく、
「おばあちゃんだって思われたのだな」
という正しい理解をすることができるよう、心の準備をしておきたいものだと思っております。 

前回記事「女友達の打ち明け話で自覚する「まだ」と「もう」【初孫ショック・前編】」はこちら>>