この原稿を入稿した後に、国際的なジェンダーギャップ指数で、日本が史上最悪を更新して121位を記録したというニュースが飛び込んできました。で、頭をこんなふうに書き足しているわけですが、今回はその原因はこういうとこにもあるんじゃないか、というお話。はじまり、はじまり。

フィンランドで30代の女性首相が誕生したニュースを聞いて、ある世界的なベルギーの映画監督にインタビューした時のことを思いだしました。
その作品の主人公の女医さんが、身近で起こった貧しい移民の少女の死に責任を感じ、身元不明の彼女の親類を探すというお話。この主人公の少女に対する罪悪感と憐みは、彼女が同性だからでは……と思った私は、監督に「主人公を女性にした意図は?」と質問しました。すると巨匠の兄弟監督は「え?」という表情で「意図っていっても、僕の主治医も女医だし、兄貴の主治医も女医なんで……」との答え。後で調べたら、彼らの国ベルギーの女医の比率は40%に近く、別に医師が女性であることはそれほど特別なことではなかったのです。これは裏を返せば、私が医師が女性であることを特別なことと思っている証拠で、自分の中にあるバイアスに気づかされたわけです。

写真:ZUMA Press/アフロ

フィンランドの30代女性首相についての日本での報道には、これと全く同じことが起こっている感じがしました。つまりメディアは首相が「30代」「女性」であることを取り上げるばかり。そもそもフィンランドでは「女性首相」は3人目、女性の政治家も珍しくもないわけで、「そこまで“女性であること”に食いつくとは」みたいな反応もあるようです。つまり逆を言えば、日本のメディアの「女性だなんて珍しい!」という反応自体が、「日本で女性の地位が低い証拠」「日本で女性の活躍が進んでない証拠」ということ。まあそれは一面の事実ではあるのですが……いや、まてよ。

 

「女性●●」と扱われることがなくなる=男女平等か


例えばこの事態に際して、日本メディアや日本人が「女性だなんて珍しい!」と反応しなかったとして。それが「日本女性の活躍している証拠」とか「日本女性が活躍する」という意識の変化につながるのか?

仕事柄、バリバリ働いている女性に取材することも多い私ですが、そこでなんだかちょっとモヤモヤすることがいくつかあります。

たとえば「女性**」とセグメントされることを嫌がる人。もちろん自分の性自認として女性じゃないっていうなら話は別ですが、それ以外の意味で「女性」とされることを嫌がる人の中には、自身が「女性性」を肯定できないような、もしくは「女性ジェンダー」をステレオタイプとしてしかとらえていないような感じを受けます。

もちろんそれは彼女たちのせいではありません。これまでの生涯で、電車に乗るたびに痴漢に会う、「おっぱい大きいね」と百万回言われ続けた、これだから女はイヤなんだよ!と上司に言われたことがある、男好きするタイプなだけなのに母親は「ふしだら女」扱い……などなど、そういう経験ばっかりあると、自分の女性性を肯定的にとらえることはできません。加えて「きれい」「かわいい」「おしとやか」「主張しない」「補佐的」といったステレオタイプの「女性ジェンダー」に縛られている人は、そこから外れる自分が、「女性」とひとくくりにされることを嫌がります。

そういう思いがどこかにありながらも、まあそこは大人として対応しましょうよという「穏健派」の人たちの論調が、「「女性」を強調すること自体が「日本女性の活躍が進んでいない証拠」」。もしくは「自分が冷遇されたり差別的な目にあっても、その理由が「自分が女性だから」だとは思いたくない」。人によっては「自分が取り立ててもらえたのは「女性ゆえの特別扱い」ではない」という、その裏返しであることも。あたかも、自分が「女性」であることから目を背けていれば、「女性差別」という現実を「ないもの」にできるし、依然として男社会である場所で今後も生きていける、とでもいうように。

例えば「男社会」と言われる場所で働く海外の女性は、自分が女性であることを否定せず、かといって、人によっては特別女性らしいあり方をするわけでもなく、それでいて「もし自分が男性だったらこういう苦労はしなかったと思う」とはっきり言葉にする人のほうが多い印象です。そして差別がなければ「女性でも差別なく活躍できる」とこちらも明言します。それに比べると日本人って……前向きなようでぜんぜん前向きじゃなく、むしろ問題から目をそらしているかのように思えます。

男社会でどうにかして一定の評価を得た女性が、こうした思考回路に陥ることは、ある程度は仕方がないのかもしれません。でも、女性が首相になることが特別でないフィンランドや、女医が当たり前のベルギーのように、「性別でなく実力で選ばれるのが当たり前」という社会のコンセンサスがある国の人が、「“女性”を強調することには違和感」というのと、女性であることを理由に大学受験や就職で足切りされ、女性議員比率が10.3%という日本人が、「“女性”をことさら強調することに違和感」と言うのではワケが違います。だって日本では第一線で活躍する人が「“女性”であること」は、まだまだ特別なんですから(「男女平等はまた後退 ジェンダーギャップ指数2019で日本は過去最低を更新し121位、G7最低」)


「男性とか女性とか言わなくなる時代」がくること、もちろんそれが理想。でももし今の日本でそういう時代が来るとしたら、それは「ことさら女性を強調するのも……」と忖度した結果でしかないのでは?

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