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「結果」だけを求められた雅子さまの喪失感……病に批判が集まった理由

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昨年、天皇陛下の即位に伴い皇后となられた雅子さま。年明けから年末にかけての一連の即位の儀式をみごとに行われました。
とはいえ、ご結婚から25年あまりの間、適応障害などさまざまなおつらいことも。天皇陛下はお誕生日の記者会見でも、雅子さまはいまだご療養中であると述べられています。
雅子さまのご病気、そして「うつ」とはどのようなものなのでしょうか?
朝日新聞やアエラの元記者で、雅子さまに関する記事を執筆している矢部万紀子さんの著書から、改めて紐解いてみましょう。

皇后としての輝き…ファッションに表れる雅子さまの生き方>>


「東宮職医師団見解」に一貫して欠けているもの

 

秋の園遊会でクリーム色の格式高いお着物をお召しになり、笑顔でご歓談を。この2か月後に長期療養に入られました。2003年10月30日、赤坂御苑にて。写真/ロイター/アフロ

雅子さまのご病状の説明は年に一度、「東宮職医師団見解」という形で成されている。2005年(平成17年)からずっと、文書で発表されている。医学的見地から「説明」し、皇太子妃でありながら患者であるという人の存在を、不特定多数の人に理解してもらおうと「説得」を試みていることは分かるが、「共感」にまではいかない。そういう文書が毎年、発表されている。
そもそも最初から、雅子さまの病というトピックスについて、誰かが戦略をたてて対処した様子がうかがえない。

 

帯状疱疹の発症をきっかけに2003年(平成15年)末から公務を休んだ雅子さまは、小和田家の別荘で静養された。この時点で、「美智子さまは正田家との交流をごく控えていたのに」と比較され、それが雅子さまへの批判的な目の始まりだったと記憶する。

一方ですでに書いたように均等法第一世代の女性たちは、自分たちの息苦しさと雅子さまを重ね、「共感レベル」で見ていた。彼女たちが感覚的にとらえたことを、一般に広げる努力をここからしていればよかったと思う。後の祭りなのだが。

翌年5月に、皇太子さまから「人格否定発言」が飛び出した。皇太子さまと同じ1960年(昭和35年)生まれの評論家・福田和也さんはこの発言を「追い詰められた息子の賭け」と表現したが、父である天皇陛下からは支持でなく、「国民に説明を」という指示を得てしまう。

それから2カ月後の7月、皇太子ご一家の広報担当でもある東宮大夫から、雅子さまは「適応障害」という病だと発表され、そこから一年余りたった2005年(平成17年)12月、雅子さまのお誕生日にやっと医師からの説明がなされた。それが「東宮職医師団見解」文書第一弾だ。
 

 

雅子さまの体調について7月に宮内庁が適応障害と発表、それから4ヶ月後のポートレート。2004年11月17日、東宮御所にて。写真/宮内庁提供

400字詰め原稿用紙で9枚強というボリュームで、「1病名と治療方針」「2現在のご病状」「3今後の課題」と分かれている。
雅子妃の適応障害は、慢性のストレス因子が原因で長期化するタイプであること、回復はしているが体調に波があり、公務を続けてできるほどではないこと、公務ができないことを心苦しく感じているという雅子さまの気持ち。それらが1と2に書いてあった。
3が一番長い。結婚前の知識や経験が生かされるライフワーク的な仕事や研究を公務に生かすのが重要なこと、自由な外出ができないことがストレスだから、私的外出や運動がよいこと。日常のプライバシー確保が回復には不可欠なこと。それらを説明し、「静かに見守っていただければありがたいと考えております」と締めくくった。

以来、毎年お誕生日に文書が出されている。2018年(平成30年)12月版を見ても、趣旨はほとんど変わっていない。
着実に回復しているが体調に波があり、過激な期待は逆効果で、私的な活動も大切だと考えている。周囲の理解と支援を受けながらの治療が大切である。そういう内容だ。具体的に取り組んだ公務も列挙され、増えていることはわかる。

だが、読む側にすると、どうもわからない。初回の説明から、ずっとこのことへの答えが見えない。それは、「なぜ私的な活動はできるのに、公務はできないのか」という問題だ。

第一弾では私的外出や運動について、「こうしたご活動を通して心によい刺激を与えていただくことが治療的に重要であるとの医師団の説明をご理解いただき、ご協力いただいております」とあった。医師団が頼んで、そうしてもらっているというスタンスだ。

最新版では、「私的なご活動」の幅を広げていただくことも大切だ、とだけあった。なぜそうなのか、は書かれていない。
一貫してこの問題へ納得できる説明がないから、ずっと同じ批判にさらされる。

病名が発表されて約半年後の2005年(平成17年)2月、皇太子ご一家が長野県のスキー場で静養した。一週間後、同じ長野県でのスペシャルオリンピックス冬季世界大会の観戦を、当日に取りやめた。「雅子妃のドタキャン」の始まりだ。
 

2005年1月、長野・奥志賀高原スキー場にて。写真ともに/宮内庁提供

以来、ディズニーランドや三つ星レストランなど「私的外出先」が数々報じられ、欠席続きの公務の数々が指摘された。歌会始の儀が行われていた日や国賓が来て歓迎の式典があった日に、そちらは欠席したにもかかわらず、わざわざ皇居に行って乗馬をしたということも報じられた。

この「プライベート優先」に加え、雅子さまの実家との近さも折々で問題視された。2006年(平成18年)にオランダ王室の招待で実現した静養でも、ハーグ在住だった小和田夫妻が女王のお城でご一家と合流したと伝えられ、翌年のお正月に小和田夫妻が東宮御所を尋ねたことはすぐに週刊誌ネタになった。

その後、詳細はここでは省くが愛子さまの不登校という問題が加わり、雅子さまはますますプライベート=子育てにのめり込むようになった。2011年(平成23年)には、愛子さまの山中湖での校外学習二泊三日のすべての行程に付き添った。二泊三日の地方公務は4年間していなかったから、批判が頂点に達した。この頃には「皇太子さまは結婚して変わってしまった」という関係者の声も、しばしば伝えられるようになった。
 

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