酒井順子さんによる書き下ろしエッセイ。「ガラスの50代」をテーマに2019年1月から全18章(36回)に渡ってお届けしておりますこちらの連載ですが、実は今月で最終章となります。締め括りのテーマは「老い」。四季の移ろいとともに有り様が変化する柿の木を眺めながら考えたこととは……。
「柿の葉死して、実を残す」
私が仕事をする部屋は二階にあり、窓からは柿の木が見えます。秋になると、手を伸ばせば柿の実がとれそうなほどの距離にあるその木の上半身を、私は日々眺めつつ仕事をしているのです。
柿は落葉樹ですので、季節とともに眺めは変化してゆきます。春は、赤ちゃんのような若葉が顔を出す頃。
「萌えいづる春にー?」
「なりにけるかも!」
と、コール&レスポンスをしたくなるような眺めです。
その若葉がぐんぐんと大きくなる季節は、人で言うなら第二次性徴期といったところでしょうか。成長の勢いにやられて、こちらまで鼻血が出そう。
5月にもなれば、中学生か高校生か、という新鮮さで、うぐいす色の葉が青空に映えるのでした。その表面は眩しいほどにツヤツヤで、水分も油分もしっかり蓄えている。
大きさは一人前、けれどまだ繊細な風情も湛える葉が、太陽の光を存分に浴びる様を見て、「若いって、こういうことなのよね……」と、私は思うのです。何もしなくとも輝くように美しい時が、私の人生にもあったのだなぁ、と。
梅雨の時期に地味な花を咲かせると、それは柿の木にとっての成人式。夏になれば、強い日差しを浴びた葉は次第に深緑色になり、厚みを増していきます。人で言うなら、社会人としてバリバリ働いたり、子育てを頑張っている、という時でしょうか。色々な経験を積んで、ちょっとやそっとのことでは動じない強さを備える時期です。
そして、秋。夏の間は小さく青かった実が次第に大きくなり、台風が来ても落ちずに頑張ったものが、やがて色づきます。すっかり柿の実が茜色に熟したその季節、私は窓の外を眺めつつ、
「50代くらい、なのかなぁ」
と思っているのでした。
大きくなった実は、人間で言うならば子供や仕事の実績といった存在でしょう。実が太っていく一方で、葉の方はといえば、まだらに黄味がかったり赤味がかったり。夏の間に強い紫外線をたっぷりと浴びた葉は秋になればみずみずしさを失い、病葉も目につくのです。
晩秋になって、一枚また一枚と落ちてゆく柿の葉。私は、「O・ヘンリーか!」と自分に突っ込みつつ、その様を我が身と重ねるのでした。
「柿の葉死して、実を残す。さて私は……?」
などと思いつつ。
「永遠」を求める欲望が最も薄い時代
植物を見ていると、時間は誰の上にも平等に経過することを実感します。柿の木にしても、若葉のうちに春の嵐で散る葉もあれば、冬になっても最後の一枚として枝についている葉もあるけれど、最終的には全ての葉が散って、木は丸坊主になるのでした。次の春まで生き続ける葉は、決してないのです。
我々もまた、同様。若く見えるとか老けて見えるとか、早死にするとか長生きするといった差はあれど、実はそれは大した違いではない。最終的には皆、同じところに着地するのです。
このように木をじっくり眺める自分に、私は年齢を感じています。若い頃は、植物に対する特別な興味は持っておらず、ただ「木が生えているなぁ」「花が咲いたなぁ」とだけ思っていました。おばさん達が花の写真を撮って喜んでいる姿を「何が楽しいのだろう?」と見ていましたが、今や自分も、花を見ては写真を撮り、柿の木を見ては「嗚呼」とか思っている。
柿の葉っぱのように、誕生から死までが1年かからない短い一生であれば、忘れる間もなく、日々の変化に自覚的になりましょう。が、我々の一生は、80年とか90年といった長丁場。変化もゆっくりなので、「このまま変わらずにいられるのではないか」と、つい思いがちです
しかし時は非情であり、ゆっくりであっても、変化は確実に進みます。じわじわと進む変化に不安が募るからこそ、人は健康や容貌、平和な日々といったものが変わらぬようにと祈るのです。
とはいえ現代は、衰えないこと、すなわち「永遠」を求める欲望が、最も薄れている時代である気がしています。昔の人は永遠の命を求めておまじないをしたり薬を探し求めたりしたようですが、「人生百年」と言われるようになると、長生きも大変だということがわかって「あまり長生きせずポックリ死にたい」という人が増加。また、一時は「美魔女万歳」的な風潮が強くなりましたが、その反動から「グレイヘアーも素敵」「シワも生きた証」という時代になってきたのです。
無理に時を止めようとしなくてもよくなったのは、喜ばしい傾向です。しかし一方で、「外見は老化してもいいけれど、精神を老化させてはいけない」という風潮が強くなってきたことに、私は懸念を抱いているのでした。
いつまでも「心は若く!」というプレッシャー
今は、いくつになっても、
「どうせ年なんだから」
「こんな年だし」
と、何かにチャレンジすることを諦めるのは、ご法度。60代で海外留学をしたとか、70代で資格取得の勉強に挑戦、といった事例をたくさん見せられ、
「いつまでも心は若く!」
「好奇心を忘れないで!」
と、中高年達は尻を叩かれています。
以前も書いたように、若い頃から心が老けていた私。やっと外見は「年相応に老けてもいい」ということになってきたのに、「でも中身は若いままでいてね」とは、殺生な……、と感じています。外見も個体差が大きいものですが、精神もまた同様。既に精神が老けている私にとっては、「いつまでも精神は若く」というのは、若い外見を保つよりも難しいことに思えます。
特にやっかいなのは、ただ若い気分でいればいいわけではなさそうなところです。中高年に求められる精神的若さとは、「未成熟」という意味ではありません。成熟すべきところは成熟している一方で、他人に迷惑をかけない範囲でのみ、若い心を残しておくことが望まれているのです。
たとえば、性に対するチャレンジ精神が若い頃のままだと、「ヒヒじじい」「ヒヒばばあ」と白い目で見られることでしょう。身体の不具合を抱えているのに激しいスポーツにトライすれば「年寄りの冷や水」となるし、自身を客観視せずに若者のような格好をすると「痛い」となる。そしてうかつに若者からの誘いに乗ったらオレオレ系の詐欺でした、ということもありましょう。「いつまでも若い心で」というアジテーションをそのまま信じると、痛い目にあいそうです。
前回も述べたように、私はコロナ騒動下における自宅蟄居(きっちょ)生活を、自分に合ったライフスタイルであると感じています。それは、ひと昔前のお年寄りの隠居生活に近いのであり、アクティブでもなければチャレンジングでもないのですが、私にとっては苦ではなかった。
そんな日々の中で私が思うのは、
「そろそろ、心も自由に老けさせて!」
ということなのでした。もちろん、70代でユーチューバーになったり、80代でエベレストに登ろうとしたりといったニュースには「素晴らしい」と思うのですが、その手の人がいる一方で、普通に老けていく人がいてもいいのではないか。
芸能界で活躍する女優さんなどを見ても、今は「外見は老けても、心は老けない」という流れになっていることを感じます。昔の女優さんであれば、一定以上の年になると、どんどんお化粧が厚くなっていったものですが、今はシワなども隠さない人が多いようです。その一方で、「精神のみずみずしさは失っていない」という主張が、激しくなってきたのです。
もちろんその姿勢は、悪いことではありません。そういった女優さんの姿を見て、「私も!」と発奮する人もいるでしょう。しかし私はそんな女優さんの姿を見つつ、やはり「そんなに『老いる』のはいけないことなのか?」と思うのでした。
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「好きなように老けさせて」後編は、6月23日公開予定です。次回がついに最終回! 酒井順子さんのこちらのエッセイ連載は、書籍化を予定しております。刊行予定が決まり次第ご案内させていただきます。ご感想、メッセージなど、ぜひコメント欄へお寄せください!(書籍化の参考、コメントの一部掲載などを企画しております)。
酒井順子さんの連載『ガラスの50代』が今秋、書籍になります! こちらに際しまして、ミモレ読者の皆さんにアンケートにご協力いただけますと幸いです。可能な範囲でご記入ください。いただいたご回答は、匿名で『ガラスの50代』単行本に資料として掲載させていただく場合があります。
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