(二)
 朝、ベッドから出てリビングのカーテンを開けると、いかにも真夏らしい入道雲が濃い青空に広がっているのが見えた。梅雨が明けてからというものつけっぱなしのクーラーの効いた部屋の中からはわからないが、今日もまた暑くなるのだろう、という気がした。歯ブラシをくわえながら、スマホの天気のアプリを開く。世田谷区36度、体感温度は43度とある。いつから日本はこんなに暑い国になってしまったのか。
 コーヒーメーカーに豆を入れて、水を注ぐ。すぐに豆をひく重い音が響く。これ、少し音がうるさくはないだろうか、と思いながらも使い続けて一年になる。
 簡単な朝食を済ませ、食器をシンクに運びながら思った。今日は病院のオーナーである佐藤直也に会う日だったと。男性と二人きりで食事をする、という単純な歓びと、その相手が佐藤直也であるという事実が私のなかで複雑に混ざり合う。けれど、クローゼットの中から洋服を選んでいる自分はまるでデートを待ちわびるただの女、という事実に落胆もする。ネイルをしたばかりでよかったと思いながら、私はシルクのストッキングに足を通す。

 フォトブライトフェイシャルは、私のクリニックで一番人気のある施術だ。加齢や紫外線によるダメージで変化した肌を、さまざまな波長を使って改善する。シミやそばかす、毛穴の開き、赤ら顔、ニキビなどの症状の改善、肌のハリやつやをアップする効果がある。患者さんの目を光から守るためにゴーグルで保護し、ジェルを薄く塗って、肌質や状態にあわせて光をコントロールしながら照射する。ほかのクリニックでは、スタッフが照射することも多いが、私のクリニックでは院長である私自ら照射する、キメの細かい治療ということがウリになっている。
「痛みがあったらおっしゃってくださいね」そう伝えると、患者さんがかすかに頷く。
 左頬から光をあてていく。ランチタイムの午後一時まであと二人。朝から五人目の患者さんだ。ニキビ痕に悩む二十七歳の女性。仕事柄、モデルや芸能人を施術することは多いが、彼女はそうではなさそうだ。会社員であるなら、平日のこの時間に来られるとは思えないが、患者のプライバシーにはかなり距離をとるようにしている。彼女の肌はうっすらとしたニキビ痕がいくつかあるものの、ハリもあり、毛穴も目立たない。陶器のようにつるん、としている。高校生といっても通用するだろう。けれど、肌の老化は二十五から始まる。それほど安くはない治療を彼女が受けようと思ったのはなぜなのか、それはわからないが、綺麗になりたい、という欲望には年齢など関係ない。
 彼女の顔に光をあてながら、自分は二十七のとき、何をしていたか、とふと思う。まだ大学病院に勤務していた皮膚科医の一人にすぎなかった。別れた夫と同棲を始めた時期だ。カメラマンの夫。売れてはいなかった。私の稼ぎで二人の生活のほとんどをまかなっていた。そして、それは、二十八で、息子の玲が生まれたあともそうだった。子育てと仕事を両立できたのも、時間的に余裕のある夫がいてくれたおかげだった、と今になって思う。けれど、別れたときには、彼に稼ぎがない、ということを責め立てた。いくら若かったとはいえ、無茶苦茶だ。彼から息子を引きはがすように別居をしたのが四十一、息子が中学に入ったときだった。その息子も大学入学と同時に、私の元を巣立っていった。
 ふと思うのは、家族でいられた時間の短さだ。一年同棲をして息子が生まれて、玲が十三になって別居をしたのだから、家族三人で暮らしたのはたったの十三年間だ。家族として空中分解をするまで、いったい、私たちは何を積み上げてきたのか、とも思う。玲を片親にするつもりなどなかったが、結果としてそうなってしまった。
 大学生になったばかりの玲が、ふと、「『ブルーバレンタイン』という映画が嫌いだ」と言ったことがある。私もその映画を見たことがある。ライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズという好きな俳優が出ていたからだ。玲が嫌いだ、と言って、初めて彼がその映画を見たことを知った。娘を持つあるカップルが、倦怠を乗り越え、また、再生しようとする映画だ。
「ラストシーンが大嫌いだ」
 とも玲は言った。結局、二人の仲は過去のようには戻らず、娘を残して父親は出て行く。別居についても離婚についても、私に向かって多くのことを語らなかった玲だったが、『ブルーバレンタイン』のラストシーンが大嫌いだ、と言われて、胸をつかれた。あれは彼の、自分の家族に対する異議申し立てだったのだ。
「さあ、終わりましたよ」と彼女に声をかける。彼女のゴーグルを外す。
「少し赤みが出ているところもあるけれど、明日には治まります。紫外線対策をして保湿をしっかりね」そう言うと、彼女はぼんやりとした顔で頷いた。