作家・窪美澄さんの新刊『私は女になりたい』の刊行に先駆けて、期間限定で連載掲載! 毎週水曜日更新・全7回にわたってお届けします。
「『私は女になりたい』執筆にあたって」本人解説はこちらから>>
『私は女になりたい』窪美澄
佐藤直也に指定された渋谷駅直結のホテルの高層階に向かった。着物姿の女性に佐藤直也の名前を告げると、渋谷の地名がつけられた個室に案内された。戸を引くと、窓のほうを向いていた佐藤がこちらを向いて軽く微笑む。笑うと目がなくなってしまうその笑顔はどこか老いた柴犬を思わせる。
「今日はなんだか雰囲気が違うねえ。まあ、座って」
向かいの席をすすめられ、私は言われるままに座る。
テーブルの横はすべてガラス窓で渋谷の夜景が一望できた。最初にこの店に来たときには、まるで子どものように窓ガラスに顔をつけ、この夜景のすばらしさを幾度も口にしたものだったが、今はもう私の心にはさざ波すら起こらない。
「最初はビールでいいかな。料理ももう運んでもらおう」
店の女性にそう言うと、佐藤直也がまるで愛娘を見るように私の顔を見つめる。その視線に耐えきれずに、私は思わず言い訳のようなことを口にしてしまう。
「今日は雑誌の取材があったんです。それでヘアメイクをしてもらって」
「僕に会うためじゃないのか」
そう言って佐藤は笑う。
「雑誌の取材はひとつも断ってはいけないよ。君が露出することはすなわちクリニックの広告だ。美しくなりたい、という患者さんが君を見つける。君のクリニックに駆けつける。君の顔はクリニックの広告塔なのだから、いつも綺麗でいなさい。診察中もだ」
断言するようにそう言われると、いつもは忘れがちな佐藤が私の雇い主なのだ、ということを再認識させられる。佐藤が上でその下に私がいる。毎日、院長、院長と呼ばれて忘れそうになるが、佐藤に会うたび思い知らされるのは、その事実の重さだ。
戸が引かれて、ビールと先付けが運ばれてきた。私が手を伸ばす前に佐藤が私のグラスにビールを注いでくれる。
「まあ、まずは飲もう。今日も忙しかったんだろう。おつかれさま」
そう言って佐藤はグラスを掲げる。薄張りのグラスに口をつけ、ビールをひとくち飲むと、冷たいはずなのに、胃のあたりに灯りが灯ったように温かくなった。
Comment