「ずーっと出てこないのに、まだ続けんのかな~」からの安倍首相退陣表明で、あら、と思った先日の記者会見。
大手マスコミの「プロンプターを使わず!」に「最後はエラかった」「伝わった」みたいな報道に「はぁ?」と鼻白むところはありますが、まあ念のために言わせてもらうと、「プロンプター使ってた会見で『責任を痛感』って言っても、『痛感』してないことはバレてましたよ」ってことですので、そこはご認識いただきたいなと思います。

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さてこういう展開の中で日本人が忘れがち、見逃しがちな、そして決して忘れてはいけないことをいくつか。首相のご病気は難病指定もされているものらしく、腹痛と下痢、発熱を伴うものだと聞きます。私も疲れるとすぐお腹に来る方なので、その辛さ、分かります。国会を開かないっていうのも、そのあたりが理由だったのかなとも。そんな状態でずっと座ってるなんてできないし、審議中に会場を出たり入ったりとか、答弁中にお腹が……ってことになれば、それこそ「首相の体調大丈夫か?」みたいなことになるに違いないわけで。

 

でもそういうことを「それなら国会開けなかったのも仕方なかったんだね」っていうことかっていうと、それは全くの別問題。いや、ぜんぜんおかしいでしょ、「首相の体調が悪いから」もしくは「首相の体調が悪いとバレるのは困るから」、こんなコロナ禍の状況で国会開かないとか。
たとえば一般の大企業で、火急に議論し対応しなきゃいけない案件がある時、全権掌握する担当責任者の体調が悪いから会議自体がなくなるーーそりゃ1回くらいはあるかもしれないけど、2~3ヶ月会社に出てこないみたいなことがあれば、担当責任者を変えるとか、全権委任された別の人たてるとかが普通。「あの人がいないと進まない」なんていういいわけは、時代の速さに気づいていない無能組織か、「他が無能だらけ」か、意図的にすすめる気がないか、出てこないことそれ自体に理由があるか、のどれかです。
「病気をおしても国会を開き、首相として審議するのが責任」じゃなく、「自分が出られなくても、どうにか国会を開く方法を考えるのが首相の責任」ってこと。


なんでこのタイミングでこういうことを書くかと言えば、日本人はこういう状況にめっぽう弱いから。「武士の情けだろ」とか「屍に鞭打つのか」とか言って、ものごとの道理を情緒的に処理しがちだからです。

私は「病気を押して」とは全然思わない。激務により体調が悪化したなら(特にそれが持病なら)、とりあえず代行を立てて治療するのが一番。もしリーダーがそれを隠すために表に出てこないなんてもってのほか。それ自体が組織の士気低下にもつながるし、業務にも支障をきたすからです。

ところが「根性論」と「情緒論」に支配された組織では、「そんなに悪くなるまで何も言わずに一人頑張ってたんだね……」みたいな話になっちゃう。そしてそうした同情論が、本来なら批判されるべき部分を、ぜーんぶ押し流してしまいがちです。「体を壊してまで頑張った人に、そんな言い方しなくても……」みたいな。これを一部のマスコミが助長してる、「もっとやってほしかった」「頑張ってくれていたのに」という一般の人のコメントのみを選び流していることにも、ほとほと呆れました。

ここできちんと意識すべきは、体調悪化による退陣と、モリカケや桜を見る会、公文書改ざんなどの問題を明確にすることは、全くの別問題だってこと。体調を壊したどころか、自殺者まで出している問題だし、病気になって「気の毒だから」と許していたら、法律そのものが無意味になるし、国民は今まで以上に舐められ、無視されても仕方ありません。

この動きの関連でもうひとつ呆れたことは、「後継首相は誰か?」の報道が、自民党内の派閥、数の論理みたいなことに終始していること。あの人の手札はこれだ、あいつとあいつは共同戦線を張ってる、あの人は勝ち馬に乗る準備が万全ーーなんていうか、自分が参加してない麻雀とかポーカーとかで、誰が勝つかを予想してるみたいです。

もちろん私たちに直接投票する権利はありません。でも少なくとも、そこに名前が上がっている人たちは、人格として首相にふさわしい人なのか、どんな政治信念を持っている人なのかを判断する情報があってもいいんじゃないか。男尊女卑や階級意識が丸出し、自分の権力拡大や維持が最優先、そんな人の名前が上がること、その事自体に疑問を呈する気はないのか。総裁選の方法は、議員と全党員が投票する本来の総裁選なのか、緊急時に行われる「両議員総会(投票は議員と都道府県連のみ)」なのか。党内理論が優先されがちな「両議員総会」を、コロナ禍をいいわけに主張している議員は、誰なのか。

そうした情報を得た上で政治家の出方を見て、私達も今後について考えていかなければいけません。10年後に振り返った時、今という瞬間は、結構大事な分岐点になるような気がします。
 

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