アメリカ連邦最高裁判所のルース・ベイダー・ギンズバーグ判事の訃報から2ヵ月弱。アメリカでは、後任のエイミー・コニー・バレット判事の就任、大統領選とめまぐるしく社会が動いています。特に、今回の大統領選は今後のアメリカの司法システムへの影響が一段と見込まれることもあり、現在、アメリカでロースクールに通っている私の周りでも、多くの人が不安な気持ちと共に選挙の結果を待っています。

「RBG」の愛称で親しまれたギンズバーグ判事の存在感

2015年、アメリカ合衆国議会合同会議でのギンズバーグ判事。 写真:ロイター/アフロ

日本でも、ここ数年メディアに取り上げられることが多かったギンズバーグ判事。アメリカでは自立した女性の象徴として、多くの人の尊敬を集めていました。女性、母親、そしてユダヤ人であるというハンデを乗り越えて、1993年に史上2人目の女性最高裁判事となり生涯を通じて仕事に情熱を注いだ彼女は、キャリアと家庭の両立やマイノリティとして差別と向き合ってきた多くの女性の希望だったのです。

2006年、ワシントンD.C.の最高裁判所にて。 写真:AP/アフロ

彼女が、法衣の上に着けていた付け襟を模したアクセサリーや彼女のイラストが描かれたマグカップが販売されたり、私が住んでいるニュージャージー州の小さな書店でも、彼女の関連本のコーナーが作られたりと、その人気は判事としては異例でした。また、最高裁判事という以前に、約50年以上も前、まだ女性が働くことが一般的でなかった時代に多くの苦労を経てキャリアを築いた彼女は、私たちにとって身近に感じられる存在です。

SNSでも、特に20代、30代の女性が彼女の言葉を引用して投稿するなど、ギンズバーグ判事の存在に励まされる人はとても多かったようです。度重なる病気を経ても、彼女の司法への情熱は衰えることなく、今年の5月には入院していた病院のベッドから、最高裁の口頭弁論にも電話で参加し話題になりました。

 

訃報を受けてロースクールの生徒に広がったショック

ギンズバーグ判事も教鞭を執った、ニュージャージー州のロースクール「Rutgers Law School」。

現在、私が通っているのは1960年代、70年代に彼女が教鞭を執っていたロースクール、Rutgers Law Schoolです。ロースクールの図書室には、教員の一人として彼女の写真が飾られ、授業でも教授や学生が頻繁に彼女の判決を話題にするなど、ギンズバーグ判事は常に私たちに大きな存在感を与えていました。

彼女はRutgers Law Schoolで1970年に刊行された、全⽶初の⼥性の権利に特化した法学雑誌の顧問となりました。現在も、その雑誌は学生によって運営され、シンポジウムの開催など、積極的に活動を行っています。

私がロースクールの1年目に取ったクラスの中に“リーガルライティング”というものがありました。それは、リサーチの仕方、裁判所に提出する文書の書き方、裁判での口頭弁論の仕方を勉強するという内容。そのクラスの教授は、口頭弁論の参考になるからと彼女の伝記映画『ビリーブ 未来への大逆転』を観るように学生に勧めていました。私もクラスの予習、課題、テストの準備の合間を縫って観に行きました。

今年9月、彼女が亡くなったというニュースは、報道直後に同級生から携帯に来たメールで知りました。最高裁判事の訃報を友人からのメールで知るというのもなかなかないことだと思うのですが、彼女はそれだけ法律を学ぶ学生に影響を与える存在だったのです。学校も、すぐに彼女について語り合う場を設けようとオンラインで集会を開きました。報道があった週末明けのオンライン授業では、教授も生徒も彼女の話題に触れ、さらに暗いニュースが増えたと嘆いていました。

コロナの収束が見えない不安。Black Lives Matterのムーブメントが起きているにもかかわらず、度重なる白人警官による黒人への暴力が報道される不安。そして大統領選の結果への不安と、ただでさえ不安定な社会情勢のアメリカにとって、彼女の死はさらなる衝撃だったのです。