息子に向けられた、夫の拳
『早希へ。この前はひどいこと言って本当にごめんなさい。スマホが壊れて連絡できずにいました。絵梨香にも会ってきちんと謝りたいので、近々必ず連絡します。いつも心配してくれてありがとう』
スマホの電話帳やLINEはすべて消えてしまったため、美穂はFacebookから早希と絵梨香に同じようなメッセージを送った。少し迷い、透にも短い返信をした。
絵梨香にも指摘されたが、たしかに透と過ごした日は久しぶりに心が癒えた。その後は彼への連絡をためらっていたが、自意識過剰ではないかと思い直したのだ。
すると驚いたことに、数秒後に透からメッセージが届いた。
『美穂ちゃん、返事なくてずっと気になってたよ!何かあった?大丈夫?』
あの夜のように、再び心が緩む。こんな風に自分を気にかけてくれる人がいるなんて、うまく現実が捉えられない。
「あれ、まだ起きてたの?」
そのとき、リビングで遅くまで仕事をしていた貴之が寝室にやってきた。彼の表情は柔らかいままだ。美穂は自分を奮い立たせて夫と向き合う。
「あの、話があるの」
「……なに?」
貴之の眉間がわずかに歪んだ。でも後には引けない。
「私、やっぱりこの前のことがどうしても気になって……。スマホを壊したり私が外に出るのを嫌がったり、最近の貴之さんはちょっと変だと思って……」
「それは謝ったよな。スマホも買っただろ」
「それはそうだけど……なんていうか、私、機嫌の悪いあなたが怖いことも多くて……」
美穂のたどたどしい言葉を貴之は黙って聞いていたが、ピリピリと張り詰めた空気が部屋の中に充満していく。
「でもね、私はもう少し外に出たいし、仕事もやっぱり挑戦してみたいの。だからお願……」
「うるせーなぁ!!!!」
怒鳴り声と共に、枕が美穂の脇腹に飛んできた。痛みはないが、想定外の大声に鼓膜が刺激される。
「ごちゃごちゃうるさいんだよ。お前はやることやってろよ。俺は忙しいんだよ。仕事がしたい?なら俺が主夫やるよ。代わりに俺より稼げよ?」
「ち、ちが……そういう意味じゃ……」
「じゃあ何だよ。稼ぎもないクセに甘いこと言うなよ。お前の仕事って、いくら稼げんの?」
また、やってしまった。
どうして上手く夫と話せないのだろう。美穂は激昂した貴之を何とかなだめようと必死に言葉を探すが、浴びせられる怒声にいちいち怯んでしまう。
そして次の瞬間、美穂の背筋が凍った。
「パパやめて。ママを怒らないで……!」
寝室のドアの前で、目を赤くした湊人がパジャマ姿で立ち尽くしていたのだ。
「なんでそんなに怒るの?ママがかわいそうだよ!」
息子の姿に、貴之も困惑の様子を見せる。
「パパ、変だよ。ママは絶対に悪いことしてない!!!」
けれど湊人がそう叫んで母に近づこうとしたとき、貴之の目が再び鋭く光ったのが分かった。
「だ、だめっ!!」
美穂がとっさに息子を飛びつく同時に、パン!という破裂音と、熱く焼けるような痛みが頬に広がった。
「ママ?ママ大丈夫?!ママぁぁあ!!」
何が起きたのかよく認識できないまま、涙声の息子を抱いた腕の力を強める。その最中も背中や腰のあたりに何度か鈍痛が走り、貴之の怒声も続いた。
しかし不思議なことに、美穂の頭はみるみる冴えていく。
ーー夫の拳が息子に向けられたーー
その事実が、ずっと頭の中にかかっていた靄(もや)を晴らしていくようだ。
「お前ら、文句があるなら出てけよ」
そして貴之がとうとうこの言葉を発したとき、美穂はようやく探していた結論にたどり着いた。
ーーそっか……。私、出ていけばいいんだ。
それは、実にシンプルな答えだった。
ぐらつく視界の中で、確かなのは息子の温もりだけ。この子を連れて、ここから去ればいい。
美穂はさらに精一杯の力を腕に込め、強く心を固めた。
美穂からメールを受け取り安心する早希。しかしキャリアを見失い、恋も仕事も完全に迷走……
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