「嫌い」は人間の成長にとって不可欠
「嫌い」の感情を認めると人はどうなるのでしょう? 「好きこそ物の上手なれ」ということわざがあるように、「好き」という感情は成長の原動力ですが、「嫌い」も同様に人間の成長にとって大切な要素だと著者は訴えています。
「人間は、さまざまなものを好きになり、嫌いになって自分を築いていく。嫌いな科目があり、嫌いな先生がいる。嫌いなクラスメートがいる。なかには、嫌いだったのにいつのまにか好きになることもあるだろう。逆に、好きだったのにいつのまにか嫌いになることもあるだろう。
だが、いずれにしても、そうやって子どもから大人になっていく。
食べ物についても、趣味についても、人に関しても、生き方に関しても好き嫌いがある。好き嫌いはその人の価値観の中核をなすものだ。好き嫌いを中心に、その人は自分の価値観や人生観を築き上げているのだろう」
ではなぜ、「嫌い」という大切な感情をタブー視するようになったのでしょう? 著者は「嫌われたくないので嫌わない」という意識が最大の要因ではないかと指摘しています。つまり、人々の中には「嫌い」な物(人)=悪者という考えが根底にあるため、その対象が自分になることを恐れているのではないしょうか? しかし、著者はそのような「嫌い」の捉え方に違和感を覚えるようです。
「まず確認しておきたいのは、嫌うということは、何かを全否定することでも断罪することでも抹殺することでもない、ということだ。『嫌う』というのは、あくまでも個人の主観による。私がすっぱいものが嫌いなのは、あくまでも私の主観にもとづいて、私とすっぱいものは相容れないということでしかない」
そもそも「嫌い」は個人的な価値判断であり、社会全体が同じ見方をしているわけではないと著者は説いています。そんな中で「嫌い」が社会的にタブー視されてしまうのは、以下のような風潮に原因があるようです。
「みんな同じものが好きであるべきだという考えがあるからこそ、自分と異なるものを排除する。主観的な『嫌い』という感情にとどまっていれば、排除になりようがない」
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