【その2】「美しさ」のみでその価値を語ることは、極力しない
私は「美人」や「イケメン」を好む人を全然否定しません。だって「美しいもの」は「美しい」という理由だけで「悪」であるはずがないし、その視覚的影響をこれっぽちも受けない人はなかなかいないと思います。「ルッキズムって最低」と言ってる人のプロフィール写真が、実物より全然キレイってこともあるし。私も「美しさ」は好きです。ただ「美しさ」はすべての答えにはならない、と思ってはいます。
「ルッキズム」の一番の問題は、その評価基準が「見た目」だけ、もしくは「見た目」に偏重すること、もしくは評価する上でより比重が置かれるべきこと(たとえば仕事の実力)があるにも関わらず、それ以上、またはそれそっちのけで「美しさ」が重視されることだと、私は考えています。
私が書いた「イケメン」の原稿を読んで、私が「ルッキズム至上」と感じる人はまずいないだろうなと思うのは、たぶん私が見た目とは別の要素ーー演技力、存在感、キャラクター性などを重視しているから。特に私の好む韓国ドラマの世界には、魅力的な個性派がうじゃうじゃいるので、「美しさ」に目がいかなくなることも。
もちろん、ごくごく稀に、本当に本当に美しくて、あらゆる価値観を完全に超えてしまうような「美しさ」に出合うこともあります。それはそれでものすごく価値のあるものだと思います。
【その3】虚構の世界からはみ出した「素の姿」を虚構の延長で語らない
例えばそういう、恐ろしいほど美しい女優、俳優たちが、虚構以外の世界で消費されてしまうことを、私は望みません。一介のライターの考えなんて社会はどうでもいいと思うでしょうが、虚構の世界から離れた美人女優やイケメン俳優が、私達と同じ「人間」であることは忘れたくない。表に出る時に「ゴージャス美女」とか「キラキラ王子様」だった人が、それ以外の場ではごくごく普通であることに、自分の妄想で勝手に失望したくはない。むしろそうでない部分ーー彼らが恋愛するなら応援したいし、普通の日常が有ることを願い、彼らが人間であることに喜びを見出したい。
そして裏返しとして、彼らがもし人間として罪を犯した時、私はなんら特別扱いする気はありません。記事を書く作品選びにおいて、そうした人がメインキャストで出演する作品は絶対に扱わない。彼らが主演俳優としてヒーローや心優しいイケメンを体現するならなおのこと、その影響は大きいと思うからです。世の中に、虚構の中で彼らが演じた虚像を引きずったまま、彼ら自身の罪を軽く見積もる人が多すぎることには、非常に危ういものを感じます。過去の悪質なイジメやセクハラなど、告発できないまま苦汁を飲んでいた人がようやく声を上げたことに対して、「過ぎたことを今更言うなんて」「きっと反省しているはずだから」「チクる社会って最悪」と完全に肩を持つことには違和感しか感じません。まさに外見しか見ていない人たち、これぞルッキズムだと思います。
ちなみに。この話はどこかに書いたかもしれませんが、韓国人の演技派俳優に「あなたの最大の強み、魅力は?」と聞いたら「顔です」と言う答えが返ってきたことがあります。「演技派だし、顔で評価されたくないんでは……」と思っていた私の思い込みは、スパーン!と気持ちよく打ち砕かれました。世の中には色んな人がいて、いろんな考え方がある。互いを理解し、それぞれの自由を担保しながら、心地よく生きる社会は一朝一夕にはできあがりません。
多様性の世界を目指す中で、新たな概念が次々と産まれています。ルッキズムもそのひとつ。私も勉強中なので、発展的なお叱りや議論はウェルカム。これを機会にみなさんもお考え頂けたらなと思います。
前回記事「一見まっとうな「男女関係なく、能力で選ぶべき」にある、巧妙な罠」はこちら>>
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