写真:AP/アフロ

はっきり言って私は東京オリンピック開催には反対ですが、それとは無関係に、オリンピック組織委員会の森前会長の後任に「女性選ばないでどうすんだよ」とは思っていました。もっと言えば山口香さんの一択しかないと思っていたので、橋本聖子さんが選ばれたその過程と結果には、正直な話モヤモヤだらけです。

 

のっけから「日本語能力大丈夫ですか」と聞きたくなったのは、組織委員会の事務総長・武藤さんの「透明性のあるプロセス」という発言です。川淵さんの時と違い、候補者検討委員会を作って手順を踏んでいれば、メンバーもその発言も非公開で議事録ナシでも、これで透明性OK!とでも思っているんでしょうか。「海外から見たら」という次元ではなく、一般的な日本の企業の常識でも、ヘドロまみれの川底みたいな透明性のなさです。にもかかわらず、これをうけた官房長官が「透明性を持ち対応している」と続けるとか、二段落ちの笑えないコントみたい。

選ばれた人が橋本聖子さんというのも、いろいろひっかかります。まずはもちろん過去のセクハラ、そして政治とのつながり。彼女が森前会長直系の政治家で、会見でも「森さんにアドバイスもらう」と普通に言ってしまうことも、おいおいおい、と突っ込まずにはいられません。

とはいえ、そういうなんやかやより、もっともっと気になったのは、国際的にかつ政治的に当然な「女性を選ぶべき」という判断に対して、「男女関係なく、能力のある人を選ぶべきだ」と異を唱える声が、さも公平でまっとうなことのように報道されていたことです。ここでちょっと思い出してみましょう。大企業の人事担当者がよく言う「就職試験で優秀な人を上から選ぶと女性ばかりになってしまう」(つまり女性ばかりにならないよう、女性より優秀でない男性を入れる)という言葉や、多くの医大が、男性を入学させるために女性の点数を減点していたという事実を。

はっきり言って「男女関係なく能力で」という意見が出るのは「女性を選ぶ」という流れがある時だけです。そしてその「能力」を測る根拠として「経験」を理由にするのもまた同じ。そもそも経験がない人に機会を与えられない人間は、根本的に人材の能力を判断する能力がない(つまり無能)か、前例踏襲しか考えない(つまり思考停止)か、育てる面倒と責任を回避したいか(つまりぐうたら or 無責任)のどれかです。これらの理由を「もっともだ」と納得してしまえば、女性は活躍するどころか、「経験がない→能力がない」の理屈で、100万年たってもそのスタートラインにさえ立てません。

厄介なのは、この「男女関係なく、能力で選ぶべき」という理屈を、男社会で一定の地位を得た働く女性たちが「もっともだ」と感じてしまうこと。私に言わせればこれは「罠」のようなものです。彼女たちには「自分は能力で勝負してきた、女だからと甘えたことはない」という自負があります。そして、社会構造において厳然と存在する男女の「機会の不平等」「待遇の不公正」(産休育休によるキャリアの断絶、仕事と同時進行のワンオペ育児、仕事のために結婚出産を諦める、出世は同期で一番最後など)を、もし指摘し主張すれば「女だからって甘えやがって」と言われることや、能力すら正当に評価してもらえない可能性も大きいことを、経験を持って知っているんですね。

そういう中で男性の倍も努力して「結果の平等」を実現してきた女性たちには、骨の髄まで「”女の甘え”は許されない」が刷り込まれています。「男女関係なく、能力で選ぶべき」の裏返しである「能力ではなく、女性を選ぶべき」は、彼女らにとって「女の甘え」であり、遡って自分の「能力」すら疑われる理屈につながりかねません。でもここで再び冷静になって考えてみましょう。一律20点減点された女性たちの代わりに、医大に合格した人たちのことーーつまりこれまでの日本社会で「能力ではなく、男性だから選ばれる」人がどれだけ多くいたかを。

あらゆる女性が蔑まれず、男性も自由に生き方を選べる社会を真に作ろうと思うならば、あらゆる組織の上層部に「女性枠」を設けるクォータ制※は必須だと、私は思っています。これは単なる「機会の不平等の是正」であって「女の甘え」であるはずがない。「女は結婚・出産で休むんだから、出世できないのは仕方ない」という反論があるとすれば、それは社会構造が主に女性に強いる「不公正」です。恥じることなど一切ありません。どうにもこうにも恥じてしまうとすれば、それは前時代的な男社会の一部になってしまっている証拠かもしれません。
(※編集部注:クォータ制とは、政治・行政や企業といった社会的組織・団体のあるポストや役職において、人種、民族、宗教、性別など特定の属性を持つ者に一定比率を割り当てる制度のこと。ノルウェー発祥の制度で、同国では1978年に男女平等法を制定し、公的機関における職員の男女比率を明記している。)


男性偏重の映画業界に片足を置く私は、多くの女性監督にインタビューしてきましたが、自分に起こっていることは良きにつけ(例えば、デビューし注目を集めること)悪しきにつけ(例えば、ベテランの男性スタッフにナメられること)「女性だからというわけではないんじゃないか」と語る人が結構いたのは印象的でした。もちろん事実なのかもしれませんが、男性ばかりの現場で「女性として存在し、主張することが許されない」彼女たちの中にある種のミソジニー(女性嫌悪)を感じずにはいられません。

「文句があるなら、やることやってから言え」と言われ続けてきたがゆえに、自分をふくめたあらゆる「女の甘え」に厳しい彼女たちは、男社会のシステムを肯定するという点では、彼女たちが嫌う「女に甘えて美味しい思いをする女」と似たところもあるのかもしれません。もちろん彼女たちの必死の努力と成果には最大限の敬意が払われるべき。個人的にも、すべての女性たちがそうした強さを持てたらいいのに!とも思います。でもそこまではできない女性たちだって、ぼんくらなのに男というだけで出世していく男性程度には、何かを獲得できる社会であっていいはずです。

さらに言えば「なんで『女だから』とか『女のくせに』とか言われなあかんの?」と主張するのに、「やることやってから」なんて言われる筋合いはこれっぽちもありません。だって社会的な強者は、努力も主張もなんもせず、ぼーっと生きてりゃ口に転がり込んでくる権利を、当たり前のように享受しているんですから。女性たちは、今こそ、もっともっと図々しくしたたかに。時代が変わるか変わらないかは、そこにかかっているように思います。

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