4 常に身近なひとの存在を気にかける


新型コロナウィルスで学校が閉じられた時、同時にテレワークが導入された人も多かったであろう。家族が一つ屋根の下にいながら、どれほど仕事ができるものだろうか。常にひとの存在を気にかけることが習い性になっている母親たちにとっては困難が強いられるだろう。

 

仕事と家庭の両立ストレスの変化を2020年春の緊急事態宣言下と、2019年の平常時とを比較した研究によると*13、末子年齢が0歳から5歳の子どもを持ちいずれも正規雇用の共働きの両立ストレスは、「強く感じていた」男性が11.1%から8.2%に減少するいっぽう、女性は16.2%から22.4%に増加していた。

 

父親が長時間職場に行き母親が短時間勤務をしながら家族の維持をはかる、という空間の切り分けでやり過ごしている核家族が日本にはとても多い。家族の存在を気にかけてしまいがちな母親は、誰も出払うことがなくなると、息抜きの時間も空間も失うことになる。主婦の職場は家族空間であり、休息は1人になる時間だ。友人と息抜きにおしゃべりすることもままならないと、母親にとって人生とは労働時間の連続となる。父親の残業時間が減ると母親の残業が増えるといってもよい。過重労働になったとしても誰も業務管理をしてくれない。

女性の自死増加は非正規雇用の不安定性による本人の失業など、経済活動と結びつけて語られがちである。だが、データ分析にもとづいて、夫の在宅勤務によるDVの影響なども大きいのではないかという推測もでてきた*14。新型コロナ禍の第2波において就業状況別で自殺する傾向がもっとも高まったのは専業主婦で、2.32倍にもなっており、雇用されている人が1.24倍、失業者が1.11倍であるのと比較して特異的な増加が起きたからである。

新型コロナウィルスで女性の自殺が増加している理由は、明確にはわからない。だが、子どもや夫がいるのになぜ、という問いには、家族がいる重みに耐えかねることがある、と答えられるかもしれない。人は借金の重みに耐えかねるだけではない、関係の重みにも耐えかねることがあるからだ。

新型コロナで在宅勤務になったり、外食できず自宅に戻らざるを得ない人が増えたとき、家族外部に依存しながら保ってきた微妙な夫婦の力学が崩れると、家族内部の非対称な力学にさらされるひとも増える。

そうでなくとも、家族のケアを自分の役割として背負いこんでいる母親たちは、時に家族成員の感染すらも自らの生活管理の失敗と認知してしまうことがある。2021年1月に、自らと子どもが陽性になったことを、「申し訳ない」と謝罪の言葉を残して命を絶った母親がいた。家族を超えて、地域の子どもたちに与えた影響までも気づかってしまうのだ。

常にひとの存在を気にかけることがケアという行為そのものである。言葉にならない微かな声を拾い、社会に居場所を得るまでの手伝いをするささやかな行為。それがたぶん、「包含する」母性といわれるものである*15。いきすぎた気づかいは時に自らを傷つけてしまう。

家族が外部を失った時、身近なひとの存在を気にかける母親たちは、互いに気づかい合う関係も失った。そのとき、彼女たちの存在を気にかけてくれる人はどこにいるのか。
 

おわりに 返礼なきケアの贈与は社会を壊死させる


最近女性蔑視の失言をした森喜朗元首相は、かつてこんな発言も残している。
「子どもを一人もつくらない女性を税金で面倒みるのはおかしい」
つまり女性は母親にならないと、老後に公的資金を受け取るに値しない存在だと言ったのである。

では、母親たちとはどういう存在なのか、ここまでみてきた社会的現実を振り返り、ひらたくいいかえてみよう。

1 子を宿したのだからどうするか決めなさい
2 産んだら全身全霊で育ててください
3 何か急なときには子の生命維持を頼みます
4 自分はともかくひとのことを気遣って

もしこの要件を踏み絵にされたら、ひとは母親業に参入しようとするのをためらうのではないか。

母親たちの多くは無償で家族や親族に膨大なケアを贈与している。母親業に参入して主婦となり、国民年金をもらったところで、年額78万円程度にすぎない。税金で面倒をみてもらえるどころか、贈与したケアは、金銭にするなら自分の生命維持がおぼつかないほどわずかしか返ってこない。

コロナ禍で妙な広がりをみせた「経済を回す」という言葉には違和感がある。回さないと生きられない状態に人を置きつづける政治が、言い訳にこの言葉を好む。市場で「経済を回す」ことが自己目的化するとき、お金を稼ぐ労働のみが価値ある行為とされている。現金を所持していても、誰かが買い物をしたり料理をしたり、清潔を維持する行為をしてくれて、ようやく人は生きられる。

かつてポランニーが見出したように、人類は金銭でモノやサービスを交換する市場経済だけに頼ってきたわけではない*16。持てる者が持たざる者に再分配したり、贈与しあう互酬的な経済原理のもとで生き延びてきた。

看護師、介護士、保育士などの職について家族外部でも誰かをケアする人の多くが女性だ。家族にとっての母親という存在となるだけでなく、ささやかな報酬でケア労働に従事し、社会の母親となるべく人々の生命を支えているのだ。

新型コロナウィルスは縮小する未来社会を、ごく近くに呼び寄せてしまった。子どもの母親になることをやめるだけではなく、社会の母親役割を担うケア提供者であることからも、女性たちは退出したくなるのではないか。看護師が集まらない新型コロナウィルス感染症病棟は、そんな未来を先取りしているかのようにみえる。

神からの贈与なき社会では、ひとが贈与したものは現実世界で返礼されなければならない。そうでなければ、国家という大がかりな社会装置が、資本家になりかわってケア提供をする労働者、つまり母親たちから搾取しているとみなすしかなかろう。

ケアの贈与が循環することなく滞るとき、社会のあちこちが壊死しはじめる。やがて腐り落ち、贈与が循環する部位だけが残る。どこまで身体が腐り落ちた後ならば、社会が痛みに気づけるのだろうか。

贈与が公的な空間で循環を始め、社会が再生するまでの道筋は残念ながらまだ見えてこない。