SNSというカンフル剤を誰もが手にした令和
 

警察ものミステリーである『桜の塔』も、根底にこのジレンマが潜んでいます。警察組織は腐敗している、だから自分がトップに登り詰めて正す、という野心を持つ上條漣(玉木宏)。そのためには綺麗ごとを言っていられないのが実情。それゆえ、手柄を立てるために違法なことをおこない、時には善良な市民が巻き込まれケガをすることも。でも、彼がトップになり警察組織が正されれば、巻き込まれたわずかな人数とは比にならないほど多くの国民を救えるはず。たしかにそれは、一理あるようにも思えます。

 

が、そこに立ちはだかるのが、漣の幼馴染である女刑事・水樹爽(広末涼子)です。彼女は証拠をでっち上げて犯人を捕まえた漣を「間違っている」と非難し、漣に「犯人を野放しにしたことで新たな犠牲者が出ても同じことが言えるのか?」と問われても、一瞬の迷いもなく「言えるね」と答えます。爽の倫理観に救われながら、漣は警察組織に挑んでいくものと思われるのですが、私にはこの爽という存在の描き方が非常に印象的だったのです。1人の犯罪者のために99人が犠牲になるかもしれなくても、法を破ることはしない。なかなかそこに迷いを一切持たず、正義を貫ける人間は少ないでしょう。正直、私だって心揺れると思います。だからこそ、「言えるね」と即答する爽を見て、ものすごく気持ちの良いものを感じたのです。そうだ、そこは迷うところじゃないんだ、と。

「正直者がバカを見る」ではありませんが、世の中にはたしかに、ルールに従っていたら誰かを守れなかったり不幸になってしまったりすることは少なからずあると思います。だからといって、このほうがより良い結果を生むからと私見で判断して行動していれば、当たり前ですが社会の秩序は保てません。だから法やルールがあるわけです。

『ドラゴン桜』の前作が放送された2005年頃は、まだまだSNSが今ほど普及しておらず、私たちは法以外で人を裁く手段を持っていませんでした。
それゆえ、時には桜木のような破天荒な方法で正義を貫くキャラも、社会を良くするためのカンフル剤としてアリだろう、という風潮もあったと思います。でもその後、私たちはSNSという武器を手にし、裁きたい人の実名をさらしたり動画をアップできるようになった。ある意味、誰もがカンフル剤を手にしたと言えると思うのです。それゆえ何事も、「これは生徒のためにつながるから」「このほうが多くの人が救われるから」と私的に判断し行動してしまうと、歯止めが効かなくなってしまう。だからこそ前作から16年経った今、どんなに正義だとしても、私は桜木の行動に一抹のモヤッと感を抱いてしまったのだと思います。

思えば私は、『イチケイのカラス』と『桜の塔』の真実解明のスカッと感よりも、その融通が効かないまでの正義の貫き方にスカッと感を覚えて見続けていたのかもしれません。そしてこの2作品が高視聴率をキープしているということは、案外みんなも、無意識に同じことを感じているのな、などと思った次第でした。


文/山本奈緒子 構成/藤本容子


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