ブルンジ難民が暮らすルワンダで勤務していた1998年頃。私の周りに写るのは、UNHCRの車輌管理等、ロジスティクスを請け負ってくれていたGTZという団体のスタッフ。

雨が降る9月2日の朝、閑散としたパラリンピック会場の幕張メッセ近くで、道に迷っている地方紙の記者の男性に声を掛けられました。聞けば、ちょうど私が向かっていたパラテコンドーの会場のメディアや通訳が詰めるエリアに、朝一番の試合に間に合うように行かなければならないとのこと。経路が複雑過ぎて、初めての人は独りでは絶対に辿り着けないと感じたので、色々な話をしながらお連れし、とても感謝されました。

朝から何故、多くの記者が集まっていたかというと、この日は、開幕当初は出場が絶望的と見られていた、アフガニスタンのザキア・クダダディ選手の試合がありました。

私自身は、米国同時多発テロ直後の2001年10月から12月にかけ、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の緊急事態即応チームの一員として、アフガニスタン国境のイラン側に派遣されました。あれから20年。日本でパラリンピックに出場するアフガニスタン女性を、会場袖から見守ることになるとは、想像もつきませんでした。

間も無くして、ブルンジ出身で、現在はルワンダにある難民キャンプで暮らし、テコンドーを教えている、パルフェ・ハキジマナ選手の試合が始まりました。パルフェさんは、1996年に母国で銃撃に遭い、お母様を失くし、自身も腕に障害を負っています。私はUNHCRの職員として、1998年から2000年にかけ、ルワンダにあるブルンジ難民キャンプで、保護者のいない子どもたちや、心身に障がいのある人を含む難民の保護や支援を担当していました。その20年後、難民選手団をサポートしたくて大会ボランティアに応募。今回、さまざまな偶然も重なり、当日になって、彼の試合後のインタビューのフランス語・英語間の通訳を、私が務めることになりました。

責任重大な通訳としての技量は本当に未熟で反省しきりですが、今回私が訳させて頂いた言葉は、AFP通信の記事にもなりました。(8月29日には、記者の方たちの依頼で、イタリアの車いすフェンシングのベアトリーチェ・ビオ選手のインタビューの録音音声を通訳したところ、日経新聞の記事に引用されたという成果もあり、やり甲斐を感じました。)

色々な困難を乗り越えてのパラリンピック参加は、奇跡と言っても、選手たちご本人の努力が引き寄せたもの。私も、何らかの形で関わりたい思いを行動に移した結果、会場でお二人の試合を見届け、情報発信の一翼を担うという奇跡を呼び込むことが出来ました。

この奇跡と同時に、忘れてはならないのは、あれから20年経っても、ブルンジやアフガニスタンでは、皆が安心して暮らせるような平和が依然として達成されていないということ。その重い課題を、あらためて考えさせられる機会ともなりました。