優しくありたいと願う現代で、優しさの困難さを描く
こうした「当事者/非当事者」のギャップは、ジェンダー、貧困、障害など、あらゆる社会的テーマには内包されています。特にSNSによってあらゆる人の声が可視化されるようになった現代だからこそ、非当事者の立場で何かを語ることは、当事者を不当に消費したり搾取したりする構造になりかねません。だから、わかった顔をするのが怖い。わからないのに、踏み込むのが怖いのです。
でもそうやって胸を痛める人が増えてきているのは、つまり世の中全体ができるだけ優しくありたいと願っているからだと思うのです。近年、「優しい世界」はひとつのトレンドワードに。創作の世界でも、悪意的な人物が取り除かれ、善良な人物しか出てこない作品が支持を集めています。こうした世界観が愛されるのは、つまりそれだけ人々が現実世界に疲弊し、フィクションに癒しと安らぎを求めているからでしょう。
実際、インターネットを中心とした誹謗中傷は一向になくならず、自分より力の弱い人間を狙った卑劣な犯行も後を絶ちません。私たちの生きる今は、確かに「優しい世界」とは呼べないかもしれない。
でも、何のデータもエビデンスも出せないけれど、本当は世の中は優しい人の方が多い気がします。性善説かもしれませんが、誹謗中傷をしている人なんてほんの一部で、大抵の人はなるべく人に優しくしたいし、優しくしてもらいたいと願っていると信じたい。そして、だからこそ苦しいんだと思うのです。
人に優しくすることは、知性と勇気と想像力がいります。こういう言い方をしたら、相手が傷つくかもしれない。こういうふうに考えるのは、自分の勝手な思い込みかもしれない。何重にも予防線を張って、いくつものクッション言葉や注釈をつけて言い方をやわらげて、私たちは人と接します。ほんの少し前ならもっと無神経に言えた言葉のいくつかを、私たちは考え、飲み込むようになりました。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、と顔をしかめる人もいるかもしれません。でも、それは決して息苦しいことじゃない。人と社会がもっと豊かになるために必要な成長痛なのです。
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