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美智子さまから眞子さままで...時代とともに変わる「皇室の結婚」を振り返る

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人の手を借りずに自分で結婚をまとめた秋篠宮さま

貝合わせをイメージした紋様の手描き友弾の振袖。美智子さまが嫁いでくる紀子さまのためにご自身で注文なさったもの。帯は良子さまから美智子さま、さらに紀子さまへのご伝来の品。
写真/JMPA

やがて時は流れ、美智子さまのお子さまたちが結婚を考える年ごろとなりました。

秋篠宮さまと紀子さまは、学習院大学のキャンパスで知り合いました。サークル活動やグループでの活動を通して、親しくなっていったのです。
秋篠宮さまが紀子さまにプロポーズされたのは、1986年(昭和61年)。JR目白駅近くの交差点で信号待ちされていた時のことでした。

「私と一緒になってもらえませんか」

秋篠宮さまは、ご自分の言葉で紀子さまにプロポーズされました。
翌日、秋篠宮さまはプロポーズのことを上皇さまと美智子さまに話されましたが、おふたりはまったく驚かれた様子はなかったといいます。

のちに秋篠宮さまはこのように話されています。
「結婚するうえで、例えば相手が旧華族出身でなければいけないなどの制約はありませんでした」

それまで、男性皇族の結婚は、必ず宮内庁が動いてまとめるものでした。
ところが秋篠宮さまは、役所や他人の手を借りずに、すべてご自分でまとめたのです。これは前例のない画期的なことでした。

秋篠宮さまと紀子さまのご婚約の発表は、1989年(平成元年)9月。昭和天皇の喪中であったため、おふたりは濃紺の喪服姿で記者会見に臨まれました。
さきの天皇陛下の喪中にご結婚の発表をするなど、ひと昔前ならあり得ないことです。
「ああ、時代は変わったな……」と、私はしみじみ感じたものでした。

 

6年越しの恋を受け止められた雅子さま

納采の儀の後、振袖のままご自宅を出発される雅子さん。ゴールドの瑞雲扇面模様(ずいうんせんめんもよう)の振袖に、美智子さまご伝来の帯をしめて。写真/小檜山毅彦

天皇陛下と雅子さまが最初に出会ったのは、1986年(昭和61年)のことでした。東宮御所で行われた皇室主催のレセプションに、雅子さまが招待されたのです。当時、雅子さまは外交官試験に合格したばかりの外交官の卵でした。

その3年後、私はロンドンでオックスフォード大学に外務省の研修生として滞在していた雅子さまを取材する機会がありました。
そのとき、雅子さまは、
「私はお妃問題には関係しないと思っておりますので。……外務省の省員としてずっと仕事をしていくつもりでおりますので、そういうことでご理解いただきたいと思います」
とまったく媚びのない爽やかさで話されました。
私は同じ女性として、好感を持ったものです。

やがて天皇陛下は一途な想いを貫かれます。雅子さまとのご婚約が調ったのは、レセプションの日から6年の月日が流れていました。

皇室は「みんなで守る文化財」


そうして間もなく、美智子さまの初孫である眞子さまも嫁ぐ日がやってきます。同じ大学のキャンパスで知り合ったおふたりは、婚約内定会見から、日本とアメリカで遠く離れて過ごす期間を経て、ようやく4年目に結ばれるのです。
時代とともに、皇室の結婚のかたちも変わっていくのでしょう。

振り返れば、上皇さまと美智子さまは大きな災害が起これば現地に向かい、ひざをついて被災者と目線を等しくして励まされました。
その姿を受けついだ眞子さまも、東日本大震災の折には現地に向かい、一人のボランティアとして活動されていました。

皇室の方々のそのお姿を見て、国民は尊敬するのです。
私は、日本人にとって皇室とは「みんなで守る文化財」だとよく申し上げています。時代とともに変化しながら、それでもやはり日本人にとって大切にしていきたい唯一無二の宝物なのではないでしょうか。


キャプションは過去の資料をあたり、敬称・名称・地名・施設名・大会名・催し物名など、その当時のものを使用しています。

取材・文/高木香織
構成/片岡千晶(編集部)


前回記事「眞子さま結婚後の警備、里帰り...一般人になった女性皇族の場合は?」はこちら>>

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