≪夕陽≫

母が亡くなって2日目の記憶は、ほとんど何もありません。
前日に駆けつけた伯母が一旦帰ったこと。
職場に連絡をしたこと。
それだけは出来事として覚えています。

職場に電話をかけ、母が亡くなったことを伝えると、受話器の向こうで言葉を失っている同僚がいました。それから多分、私はその電話で、退職届を取り下げるお願いをしたはずです。

そう言えば、母は結局雪を見たのでしょうか。

 


3日目がやってきました。

私は、再び来てくれた伯母と一緒に、母の検死が行われる病院に向かいました。

何駅か遠くにあるその病院には多くの患者さんが訪れていて、その様子は、それまで私達が通っていた病院と何ら変わりはありませんでした。

ただ一つ、母の検死が行われるということをのぞいては。

案内された場所で待っていると、パリッとした白衣の女性がやってきました。母の検死をしてくださった先生でした。

挨拶を済ませ、先生は私たちの正面に座りました。隣には一昨日の警察の方もいらしています。

「お母さまですが……」

初めてお会いするその先生は、今、調べてきてくれたばかりの母の状態を、一つ一つ、丁寧に説明してくれました。

肝臓はもう、殆ど機能していない状態だったこと。
お腹には、9500mlもの腹水が溜まっていたこと。

「普段、私達は普通に何気なく過ごしていますが、人間の身体は、常にいろんな物質のバランスを取りながら生きています。お母さまの場合、おそらく倒れたときに、一気に身体の中でそういったバランスが崩れてしまい、お亡くなりになったのだと思います」

それは、母を長いあいだ苦しめるものではなく、おそらくほぼ一瞬の出来事だっただろうと。

「それから……」先生は言いました。
「多分ここ2、3ヶ月は、いつこうなってもおかしくない状況だったのだろうと思います」

ここ2、3ヶ月……。そうです、母はギリギリのところで頑張っていてくれていたのです。

ずっと黙っていた警察の方が言いました。
「お風呂に入れたからじゃないですよ……」

 


お願いしてあった葬儀屋さんが、私たちを迎えに来てくれました。
仕度をして車に乗り込むと、箱に入った母が先に待っていました。

母の隣の席に座ると、ちょうど私は、右腕で箱を抱える格好になりました。そのまま車が走り出し、私と母は、多摩川沿いの道を行きました。ちょうど夕陽の沈む時間で、目の前には、夕焼け空が広がっていました。

9500mlも腹水をためこんで……、重かったでしょうに。
いつこうなってもおかしくなかったのに。母は一生懸命、私のそばにいてくれたんだ。

母と一緒に、燃えるように赤々とした夕陽に向かいながら、私は泣きました。たくさんたくさん泣きました。そして夕陽が沈むころ、涙はぴたりと止まりました。

母が亡くなって3日が経ちました。それは、母と私の、最後の3日間でした。

≪その後の私≫

冬は葬儀が多いそうです。「混み合っておりまして」と恐縮そうに説明する葬儀屋さんに、思わず笑ってしまいました。人は死んでも、ルールと秩序が必要です。

母はよく、「なるべくこじんまりとして欲しい」と言っていたので、お通夜はせず、小さな告別式だけを行うことにしました。“混み合っていた”おかげで、私はゆっくり用意をすることができました。

あまり多くの人には声をかけませんでしたが、それでも、何人かの母の友人に電話をかけました。みな一様に、母の死を驚いていました。

職場にも少しずつ戻り、ゆっくり働き始めました。声をかけてくれる人、何も言わずにいてくれる人、黙って抱きしめてくれる人、みんながそれぞれに想ってくれました。私は、久しぶりに職場でお昼ごはんを食べました。もう、急いで家に戻って食べる必要はないのです。


告別式の日となりました。母の友人、地域の方々、私の親友、幼馴染み、職場の人たちが、それぞれの時間を割いて駆けつけてくれました。

しんみりした話はして欲しくない、母が楽しい人だったことを覚えていてほしい。司会の方や、ご挨拶をしてくれる人には、そうお願いしました。

 


式が終わり、精進料理を頂いていたときのことでした。

ちょうど、母がけむりとなって空へ飛んでいく頃です。突然、空から雪が降ってきました。それは本当に短いひとときのことで、でもそこにいた皆が目にした、不思議な時間でした。

もしかしたら母は、最後にやっと、雪を見たのかもしれません。


壺におさめられた母は、うっすらとピンク色をしていました。長いことお薬を飲んできた影響で、色が変わることがあるそうです。ずっとお薬を飲みながら、つらい痛みと闘ってきた母。可愛いものが大好きな母ですから、ピンクならきっと、気に入るはずです。

そうそう、そういう、楽しい人でした。

明るくて、まじめで、人見知りで、ワガママで、情にもろくて、感激屋で、そして誰よりも優しい、私の母でした。


私は、告別式でこんな挨拶をしました。

「私は母からずっと、こんなことを言われていました。『お母さんが死んだら、3日間はさんざん泣きなさい。3日間さんざん泣いたら、4日目からはケロッと忘れて過ごすのよ』。3日間、もうたくさん泣きましたので、私はこれからを元気に生きていきたいと思います」

なんだか選手宣誓みたいな喪主挨拶ね。
たぶん、母はそう言って笑っていたと思います。