壮絶なシングルマザー生活の始まり

 

別居して約1ヶ月後のこと。元夫が泥酔して駅の階段から転倒し、脳挫傷になってしまいました。

 

もうダメかもしれない……と言われて、私が咄嗟に思ったこと。それは、元夫は会社を経営していたんですが、会社が抱える借金が私の元にくるのではないか……ということでした。

私は即座に判断し、すぐに離婚しました。そのおかげで、借金の肩代わりは免れることができました。

それでも3人の子どもを抱えてやっていかなくてはなりません。裕福だった元夫の実家にも助けを求めましたが、私が離婚を決断したことを責められるばかりで。結局こじれてしまい、私から縁を切るような形になって、経済的にも頼れなくなりました。

そこからはとにかく必死でしたね。もともと経営していた幼児教室にさらに力を入れ、それでも経済的に十分ではなく、洋服の販売のバイトも始めました。子どもたちの世話を全て終わらせた後、17時から23時までバイトを入れて、さらに幼児教室の運営もこなす日々。

そんな風に必死で働いていた矢先、今度はなんと、私の母が脳梗塞で倒れてしまったんです。その時はさすがに、「私が何か悪いことでもしたのかな……」という気持ちになりました。だって、天中殺のようなアクシデント続きでしたから。

私の母は、化粧品の販売代理店を自身で経営していました。しかし急に倒れてしまったので、その事業も私が引き継ぐことに。それで、実家のある愛知と東京を行き来しながら母の看病と母の仕事の引き継ぎを同時にやり、幼児教室もやり、販売のバイトも続けて……。

目が回るような忙しさに、さすがにヘトヘトになってしまい、「このままじゃダメだ」と気づいたんです。

実はこんな状況になる前に、ある商品の開発をしていました。キッカケは、子どもを育てながら家にいてもできるような仕事がしたくて、通販をやってみようと思い立ったこと。それで「飲む日焼け止め」の開発をしました。私は子どもの頃から、勉強は苦手ですがアイディアはひらめくタイプなんです。

「飲む日焼け止め」って、今はわりとメジャーですが、当時は珍しかったのでとてもよく売れました。

母が倒れてからあまり忙しかったので、「今のままの働き方じゃだめだ」と気づき、できるだけ動かなくても収益を得られる通販に力を入れ、それによってかなり助けられたと思います。

そうは言っても、3人の子どもを養い、学校まで入れて卒業させるのには、相当お金がかかります。心苦しかったのは、医学部に行きたがっていた長男の願いを聞いてあげられなかったこと。息子は薬学部に入学し、現在も通っています。

ちなみに、脳挫傷で完全な回復は難しいだろうと言われていた元夫は、奇跡的に復活しました。子どもたちとは今も連絡を取っているようですが、私は離婚以来一切関わっていません。


突然起こった元夫の事故と離婚により、一瞬にして3人の子どもを抱えるシングルマザーとなった西野さん。子どもたちを育て、母の看病をしながらひたすら働かなくてはならないというまさに壮絶な日々を過ごしていました。

次回は、りんご飴ショップを始めることになった人生の転機と、そこから大成長を遂げるまでの奮闘について語っていただきます。
 

取材・文/小澤サチエ
構成/山本理沙

 

前回記事「「稼げない人間はいらない」とまで言われた女性が40代で奮起し、成長を遂げた極意」はこちら>>


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