突然ですが、ある女性のキャリア遍歴をご紹介させてください。
「専業主婦17年 → 47歳で食堂のおばちゃん → 電話受付 → 一流ホテル営業管理職 → 50代で円満離婚 → 大手飲料メーカー責任者 → コロナ失業 → スーパーでレジ打ちバイト → 62歳でホテル社⾧に転職」
まさに不撓不屈の人生。セカンドステージを切り拓くロールモデル。こんな言葉で表現したくなる経歴の持ち主こそ、NHKの番組『逆転人生』の出演でも一躍話題となった、元主婦の薄井シンシアさんです。外交官の妻、そして育児に奮闘する母として、20年近く仕事を離れた女性が人生後半に輝かしいキャリアを掴むその姿に、勇気づけられた人も多いのではないでしょうか。

そんな薄井シンシアさんが新著『人生は、もっと、自分で決めていい』で伝えるのは、専業主婦も、共働きも、そしてキャリアの再出発も、「限界を知ることこそが、後悔しない人生につながる」という“シンシア流”の教えです。私たちがセカンドステージの選択で迷わぬよう、自らの苦い経験も包み隠さず明かしてくれる本書。今回は、仕事大好き人間だったというシンシアさんが出産を機に専業主婦になった理由、そして子育てを経てわかった限界と「変えられるもの、変えられないもの」について、特別にご紹介します!

元主婦→62歳でホテル社長に!セカンドステージ開拓者が説く「変えられるもの、変えられないもの」_img0
 

薄井シンシアさん
1959年、フィリピンの華僑の家に生まれる。国費留学生として東京外国語大学を卒業後、貿易会社に勤務し、日本人の外務省勤務の夫と結婚。その後、30歳で出産し、専業主婦に。5カ国で約20年間暮らす。娘の大学入学を機に、47歳で再就職。娘の母校のカフェテリアで「食堂のおばちゃん」から仕事を始め、日本に帰国後は、時給1300円の電話受付の仕事を経てANAインターコンチネンタルホテル東京に入社。3年で営業開発担当副支配人になり、シャングリ・ラ東京に転職。2018年に日本コカ・コーラで東京2020オリンピック・パラリンピック大会のホスピタリティシニアマネジャーとなるが、新型コロナウイルス感染拡大によるオリンピック・パラリンピック延期で失業し、スーパーのレジ係をしながら転職活動。2021年春、外資系ホテルLOF Hotel Managementの日本社長に就任。LinkedInの認定インフルエンサー。

 


私はフィリピンの華僑の家に生まれました。「女の子に学歴はいらない」という家父長的な考え方に反発して、20歳のとき国費留学生として来日。東京外国語大学などで学んだあと、貿易会社に就職し、27歳で外交官だった元夫(58歳のときに離婚)と結婚しました。

この頃は自分が仕事を辞めるなんて全く思っていなかった。結婚早々に夫に帯同してアフリカのリベリアへ行きましたが、2年後帰国してすぐに広告会社で働き始めました。

仕事は面白い。事務の仕事では飽き足らず、営業の現場に出たいとずっと考えていました。30歳で妊娠したときも、産休を取得して仕事に復帰するつもりでした。しかし、娘を腕に抱いた瞬間、気持ちが一変。「この娘を育てることが、私の人生最大の仕事になる」と直感してしまったのです。それで迷わず、専業主婦になることを選びました。
 

子どもが生まれて「限界」が見えた

元主婦→62歳でホテル社長に!セカンドステージ開拓者が説く「変えられるもの、変えられないもの」_img1
 

仕事を続けたかった私が、生まれたばかりの娘を抱いた途端、どうしてあっさり専業主婦の道を選んだのか。子どもってそんなにも大きな存在なのか。疑問を抱く人もいるでしょう。私にとっては、子どもという存在の破壊力たるやすさまじく、「子育ても」「仕事も」やりたかったけれど、この二つは並列させられるようなものではなく、子どもの優先度が飛び抜けて高かったのです。

それでも、仕事も手放さずに両立できる人もいますよね。多くのワーキングマザーは、ファーストプライオリティは子どもであっても、歯を食いしばって仕事を続けているのだと思います。

でも、不器用でキャパシティの小さい私にはそれができなかったのです。あのとき、「もしも娘の人生に何か問題が起きたとしたら、私はどうするだろう」と考えました。例えば娘をどこかへ預けて仕事をしている最中に、事故か何かで娘が大ケガをしてしまったとしたら? 私はそれが自分のせいではなくても、自分を責め続け、仕事を続けていたことを悔やむだろう。いろいろなシチュエーションを想像しました。

ああ、ここが私の限界なんだ。

子どもが生まれて初めて見えた、自分の限界でした。だから、私はキャリアを諦め、育児に専念することに決めたのです。もちろん、仕事は続けたかった。でも、私の限界なのだから仕方がありません。この気づきは大きかったと思います。