「弱者叩き」の発想を支える「自己責任論」


アツミ:一昨年「ホームレスの命なんてどうでもいい」と発言したメンタリストDaiGoさんもそうでしたが、優生思想的な発言をする多くの人は、何かといえば「自己責任」を口にしますよね。貧乏は努力が足りないせい、とか、障がいがあっても甘えず生きてる人もいる、とか。

バタ「自己責任」って妙な説得力があって、「確かにそうかもしれないな、頑張りがたりないせいだな」って思わされてしまいます。

浅田:実はナチスもそういう心理をうまく利用したんです。例えば、ナチスは障がい者の強制断種や虐殺を実行する一方で、一部の障がい者団体などとつながって、所属する障がい者たちを熱烈な支持者にしていたんです。

アツミ:え? なんで支持者に? 一方では虐殺されてるのに?

浅田:ナチスを支持する障がい者たちは「自分はユダヤ人ではないし、動けるしちゃんと働ける、社会の役に立てる」と考えたんです。自己責任論によって「悪者探し」「弱者探し」の構造を作っていったんです。誰もが不満のはけ口を探す閉塞感のある社会では、そうなってしまう危険性があります。同時に国にとっても、多くを救うために社会保障の拡充を求める人より、弱者を切り捨てる自己責任論の人のほうがお金がかからず都合がいいんですよね。

 

バタ優生思想って、一般的に「強者」とされる人のものかと思っていたけど、弱い立場の人がさらに弱い立場の人を叩く、ってことも起こってくるんですか……。

 

アツミ:「経済が悪いのは、自己責任がとれない人間、世話の焼ける人間のせい」と誰か攻撃することで、自分は弱者ではないと思いたいのかな。いざとなれば自分も切り捨てられる側になるかもしれないのに。

浅田:本来は「その尺度がどうなの?」という話ですよね。でもその尺度に合わせて、自分は役に立つ、ふさわしい人間であろうとすることに必死になってしまうんです。